映像

【REVIEW】悲劇的な英雄:出光真子〈英雄チャン、ママよ〉

今年、東京都写真美術館で開かれた第10回恵比寿映像祭では、「不可視であるなら、私が。 出光真子おんなのさくひん」というタイトルの元、映像作家出光真子の作品が上映された。合計で7つの映像作品が紹介され、その中には私もはじめて観るものも含まれていた。しかし、それでもやはり初めて観た時の影響は大きかったのだろう、〈英雄チャン、ママよ〉(1983)について、やはり語りたくなった。この作品について語ること、それはビデオについて、そしてビデオに記録された人物と、それを見届ける人物との関連について、考えることである。

 

〈英雄チャン、ママよ〉の主な登場人物は核家族、その中でもタイトルで「英雄ちゃん」と語りかける、ママの存在だ。英雄からみた父と母が暮らす家の中が映し出され、そこに息子の姿はビデオに記録された形で映る。ここで父と母、つまり夫婦間の関係に注目すると、二人の仲がさほどよくないことが窺える。母は主婦として、一日を家の中で過ごすが、その横には息子である英雄の姿がテレビに映されている。朝の眠たげな姿から始まり、食事をする姿まで、母はその横に付きっきりである。その姿を見て、夫はどこか不満げで、家に帰って来ても会話が弾まない。それもそのはず、母はテレビの中の息子から目が離せていないからだ。彼女はテレビに語りかけながら、そこに息子が居ないにも拘らず、つまりそこに存在するのは息子の記録に過ぎないにも拘らず、父のことを悪く言っている。自分にとって、息子の方が大事で、夫はただあのまま老いていくと言っている。ここで母はコミュニケーションできない存在である、画面の中の人物に話しかけている。それは一方的な自己の投影であり、その姿はまるで人形に話しかける少女のようにも見える。ただこの作品で人形と異なるのは、その姿が何かに似せたものではなく、そこに確実に存在したものの、再現である点だ。ビデオカメラを構えたとき、そこに息子は実在した。人形が何かに似せて作られたものであれば、記録された息子の姿は、事後的に再現された姿と言える。息子はブラウン管という箱の中には存在しないものの、その撮られた瞬間には、母の目の前に存在した。

再現された人物とコミュニケーションすることは、時差を伴う。つまり、「その時に」存在したものと「今」語りかけるものという、時代を経た会話になるだろう。息子の記録された姿は、リアルタイムとしてではなく、あくまで過去の存在として映し出される。それは、当時生中継が存在しなかったという根拠ではなく、その記録物としての特徴が、巻き戻しや早送りと言った、鑑賞者である母の調整によって、明るみになるからだ。この作品では、母自ら息子の過去の存在、つまり記録(物)としての存在であることを鑑賞者に伝えている。つまり、その場でコミュニケーションが不可能ということを自ら示していることになる。しかし、いくら語りかけても息子と母の会話は成立しない。しかし、それでも母は満足気であるが、その裏に存在する意思疎通の不可能性は、電話での息子との会話、そして夫、更には(何のかは明らかにされていないが)同好会の知り合いにも及ぶ。夫とは先ほど述べたように、会話が途切れ途切れで、挙句の果てには家政婦の人に面倒を任せると言い切っている。また、テレビに映った息子を観ながら、母を尋ねた同好会のメンバーを追い返してしまう。その口調には、今すぐにでも先ほどまで居た部屋に戻りたいという思いが感じ取れる。話す時間が短いから、まともなコミュニケーションがとれないというわけではなく、その時の母の反応は、コミュニケーションの「拒絶」により近い。部屋に戻って息子の映された画面に話しかけることは、コミュニケーションを「取って代わる」ものとしてではない。何故なら、そこで息子は過去の姿として記録されていて、母はこの古き良き息子の姿を吟味することは出来ても、今の息子とコミュニケーションが取れていないからだ。この時、息子とコミュニケーションが不可能という事実は、以下のように考察できる。まず距離的なもの、つまり何かしらの媒体をもとに意思疎通が出来ることと言える。息子の英雄は会話の中でどこかの寮に入っていると描写される。次に心の距離。母は電話で息子と会話をしながら、口喧嘩になってしまう。離れて暮らす息子に何か送ってやろうと、テーブルの上にあれこれ準備しながら電話で話すが、息子は母が訪問することを拒み、いらついた様子で話している。しかし、これは決して息子の声でこれらの発言がされるわけではない。受話器の向こう側にいる息子の声は、鑑賞者に聞こえない。よって、鑑賞者は母の反応を見て、電話越しの息子の言葉を想像することしかできない。鑑賞者はコミュニケーションの不可能性を、親子の仲が悪くなった描写だけでなく、息子の声が鑑賞者まで届かない表現によって、その不和を一層感じ取ることが出来る。そして最後に、登場人物である母自身が、過去の息子に語りかけている点だ。それは、テレビやビデオに話しかけることが、機械に話しかけているという事実でもあるが、同時に時間軸のズレの中で母が生活しているということでもある。そこで母は、過去としかコミュニケーションできていない。つまり、その息子だけでなく、夫とも、そして周りの人のいる現在と関係を結ぶことなく、今を生きている。しかしそれは、過去へと己を縛りつけ、今を生きていない姿である。

母はここで、機械―メディアとしての―を通して、息子の姿を観察している。ブラウン管に映された息子の姿を見ながら、母は微笑み、満足する。今日とは異なり、その姿はリアルタイムや生放送でないことが、巻き戻しや、また電話で息子と会話をする時に明らかになる。息子の姿はここで記録物として認識される。母はテレビを見ながら、その過去の蓄積見ているのだ。つまり、自分がかつて映像を記録しながら見届ける際に介入した媒体―おそらくビデオカメラ―を用い、文字通り「機械を通して」息子を見ることが可能であった。しかし、テレビ、またはテレビに映る姿は息子の姿でありながらも、その記録物としての特徴が強く現れる。つまるところ、母は「当時の息子」を観ている訳で、それが電話越しの現在の様子と一致させられていない。母は息子の今ではなく、英雄の記録(物)に話しかけている。よって、家政婦に家事を任せて、息子に会いに行くシーン、玄関から勇みゆく母の表情は、どこか悲劇的結末を含んだヒーロー(英雄)のようにも見える。結局のところ、「息子には母が居てあげないと」と自ら発言することは、母にとって息子という存在、つまり彼女が面倒を見てあげることのできる対象が必要と、言っていることになる。しかし、ここで母の考える息子は、その過去へ多くを依存し、今の息子に目を向けられていない。息子を母が面倒見なければ何もできないと思いこみ、会話もままならないまま、母は家政婦に家(と夫の面倒)を託す。自分の今住んでいる場所を堂々と離れる姿は、彼女自身が今の居場所ではない、つまり過去へと執着する姿のようにも思える。その表情から感じられる悲劇的結末、それは母のすがる過去として投影され、過去という時間軸へ閉じ込められた息子に父のことを話したように、「ただあのまま老いて死んでゆく」悲惨な姿をどこか予感させる。

(K4ø)