まとめ

【評論】写真的傾向:武田鉄平と千葉正也の絵画から

絵画のための絵画、という文章を目にした時、美術史を齧ったことのある人は、クレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg)のモダニズム・ペインティングを思い浮かべるのではないだろうか。平面(flatness)を強調した、つまり絵画らしさを追求したものこそが、それであり、そこにはナラティブや空間(の創出)が含まれないと主張した。勿論、彼の意見に対してロザリンド・クラウス(Rosalind Krauss)などをはじめ、様々な「批判的な」考察が行われているが、ここでは省略する。

武田鉄平<絵画のための絵画 012>(2017)武田鉄平<絵画のための絵画 012>(2017)

 

 

 

 

 

 

 

 

武田鉄平のシリーズ<絵画のための絵画>は、一見すると質量が感じられるポートレイトのようにも見えるが、実際に見てみるとそれが(絵画的)表現であることに気がつく。そのうねるような筆遣いは、実はきめ細かなタッチによって「再現された」ボリュームである。絵の具の持つ質感が、ここでは幻影として、つまり表現の対象になっている。光沢のように映る箇所は、白い絵の具を細かに塗ってある。多くの人にとって、この<絵画のための絵画>シリーズを見て、視覚から得た触覚―まるで触れらようにも感じ取れる―は、作品に近づきながらその感覚が間違ったものだと気付かせてくれる。この時、見て-知覚することの関係性が、絵画の虚構によって崩されてしまう。作品を見たときに感じられるボリュームや重量感は、徐々にウソであることが明らかになる。この点で作品、つまり絵画は、絵画のために描かれていると言うことができる。絵画のため、つまり一方で、原本と想定できるボリューム感溢れる絵画のために絵は描かれて、またもう一方では絵画のもつ演出や虚構といった―つまり、グリーンバーグが好まなかった―絵画の特徴を主張している。

しかし、そのタイトルはどうも否定しているようにも感じられた。というのも、ここで作家が行っていること、つまり絵の具のボリューム感を平面に再現するという行為は、その平たさも合わさって写真のような印象を受けたからだ。彼の作品ではベース、つまり作品の対象となる原本となるポートレートを、絵画として(再度)キャンバスに写し取っている。つまりこの作品は、もととなる絵に存在したボリュームを、絵画という言語で視覚的に再現している。絵画というものが演出や虚構に基づいて、あるものを写し取るのであれば、武田鉄平の作品はタイトルどおりと言える。更に言えば、元となるペインティングが無い場合には、その虚構性がより根本的な創出とも結び付けられる。

しかし、絵画を写しとっている(ように見える)点で、そこにある/あったかもしれない対象をそのまま見せるという点では、写真のようとも言える。ボリューム感のある元の絵があるにしろ無いにしろ、そこには対象となったものの不在が見え隠れしている。写真の持つ現実性について、「かつてそこにあった」ものとロラン・バルト(Roland Barthes)が「イメージの修辞学」で述べている。現在性における不在―バルトの言う「非現実性」―は、<絵画のための絵画>において2つの不在として現れている。それは、元の絵がある場合には、それの「あった」過去として描かれ、また元の絵が無い場合には、「原本すらない」という不在、つまり作品では絵画によって「生み出された」原本として現れる。ここに、<絵画のための絵画>における絵画と写真の妙な接点を見出せるだろう。

千葉正也<Pork Park #5>(2016)千葉正也(2016) 展示風景

武田鉄平の「写し方」と比べた時、千葉正也の絵画が思い浮かべることが出来る。千葉正也はインスタレーションを絵画で写し取っているからである。巧妙にセットされた舞台は、作家によってまた巧妙にキャンバス上に写し取られる。ここで二人の作品がなぜ「絵画である必要があるのか」という当為性を、私は語るつもりはないし、その質問には「彼らが絵を学んできたから」という答えで留まってしまうだろう。そうではなく、私はあくまで「絵画として描かれた作品」から写真との親密さを見出そうとするのみである。「それらは写真で撮ってしまった時、何がいけないのだろう?」という質問の代わりに、「絵画で描くこともまた、写真の属性に近づくことが出来る」という試みで、考察を行いたい。

だとすれば、千葉正也の一連の絵画にはどのような写真的傾向が現れているのだろうか?まず、彼の作品もまた武田鉄平と同じように、対象となるもの―千葉正也の場合には、はっきり存在するシーンとして―を絵画で写している。大きなキャンバスを見ると、実に多くのモチーフが描かれていることに気がつける。このモチーフの中に、千葉正也はキャンバスに描かれた絵画をも頻繁に含めている。つまり、[ある物質的な支持体で、その上に絵が描かれている]ものを対象と看做して、再度キャンバスの上に写している。しかし、千葉の作品が武田と異なる点は、そのモチーフにそれぞれ逸話のような自伝的なストーリー、そしてモチーフに関したストーリーを練る想像力が付け加えられている。森美術館で先日、構想まで書かれているスケッチを見たとき、実に精密という印象を覚えた。作家の作品が幼少期の思い出や記憶まで含め、それらはセッティングされて、キャンバス上に絵画という言葉を借りて現在化させている。そこにはそれぞれ異なるタイムラインでマッピングが行われて、それぞれのモチーフと繋げられている。ここで言う現在化とは、絵画のモチーフとなったもの、つまりその存在しないシーン自体を観客の前に現すという点だけでなく、マッピングされた記憶の現在化とも言えるのではないか。千葉正也は絵画として想像の場を描くのではなく、想像の場を作り、それを絵画として記録するのである。

2人の作家において、絵画は表現としてより、記録として用いられている。この点で写真を撮ること、つまり(一般的に)そこにあるものを写す、という行為が絵画という言語に置き換えられて施されているといえるだろう。ここで絵画はその写実性を伴うことで、記録としての役割を果している。ここではキャンバス上に創出する行為から、対象を自然なかたちで記録する、よりテクニカルな行為へ取って代わることになる。

(K4ø)