まとめ

【REVIEW】阿部共実:月曜日の友達(2)

2. 吹き出しの台詞・沈黙とその羅列

1)文学的言語:吹き出しの台詞

まず文学的側面から見てみることにしたい。よって、絵よりは文章や文体、またその表現の仕方に着眼しながら、分析をしたい。それはつまり、漫画というストーリーがある以上、主人公や登場人物の台詞にフォーカスを向けることになる。台詞は大まかに分けて、「話された言葉」、そして「思いに描いた言葉」として文に現れる。これは視覚的に吹き出しの形が違うことに、はっきりと分かる。それぞれ共通して、先に述べたとおり、難しい表現がだらだらと並んでいるわけではなく、むしろ簡潔な表現が並べられている。これはまた、その描く対象によって、二つに分けて考えることが出来る。一つは、登場人物―特に主人公である水谷茜―の気持ちを素直に綴ったもの、そしてもう一つは、状況描写のふたつに分けられる。もちろんこれらは概念として隔てることができ、漫画に別々に描かれているという訳ではない。むしろ、横のコマに並べられたり、また一つの文に同時に描かれることで、ある種の緊張感を生み出している。ここで言う緊張感とは、状況描写と心理的描写の関係性によって生まれる。これが顕著に現れるのは、先に述べた二人乗りのシーンである。夕方、暗くなった空の下、森を駆け抜けながら、水谷茜は思い出が真っ黒になるまで燃やすという言葉を共に言葉で綴っている。

 

「もう太陽が沈んで 街頭もない辺り一面は 自分の色を忘れたかのように真っ黒なのに、」

「西の空はまだ 炎のように 赤く赤く 燃えている。」

「お前は まるで写真に放った火のにおいを 吸い込むように 思い出を嚙むんだ。」

「思い出が真っ黒になるまで 燃やすんだ。」

 

ここで前の二つの文章が状況描写、そして後ろの二つは心境描写と言える。ここでは状況描写と心理的描写がそれぞれ因果関係ではなく、互いに歩調を合わせて繋ぎとめられている。つまり、ここではその状況故―先んずることはあっても―気持ちに影響が及んでいるように、描かれていない。「今日は天気がいいから、気分がいい」という表現ではなく、あくまで羅列に過ぎない。ここでは燃える・燃やすというキーワードをもとに、日と火のイメージが結び付けられている―そして視覚的にはその場面が段々と黒ずんでいくことが確認できる。この羅列は―次に述べる、文章を読むという呼吸にも繋がる話だが―、そこに因果関係の提示を必要としないまま共に描写される、まるで俳句のようである。状況の描写と、心境描写は、たがいに並ぶことで、緊張感が生まれる。つまり、それらの文章はそれぞれ自律的に存在すると同時に、互いに因果関係がはっきりしないまま、そこに置かれることで、読者の想像力が発揮される。「跳躍台 人なしプール 真青なり」と詠んだ水原秋桜子の一句が、状況描写で留まらない以上のものとして、つまり心境へと読者を導くのと同じように、阿部共実の文章もまた、凝縮された緊張感を感じることが出来る。

ここでまた興味深いのは、その文章の並べ方や、句読点の配置に作者が考慮したところだ。そうすることで、作中にも登場する「思い出を反芻する」という行為が、読者にもその機会を与えられる。読者は単に、その文章を噛み締めるだけでなく、その大前提として作者が与えた文の区切りを無意識の内に受け入れて読んでいる。つまり、そこには呼吸の区切りが巧妙に溶かされている。それは発話の主体から文字へと現れることで、また読者へとその呼吸を共有させる。何故「お前はまるで 写真に放った火のにおいを」とではなく、「お前は まるで写真に放った火のにおいを」と表現したのか、理由はない。それは、その言葉を放った・思った人の呼吸として、現れているに過ぎない。このような呼吸を読者が読むことで、このシーンの場合は水谷の心境や状況描写が、読者のものとして体現(embody)されるようになる。そうすることで、読者はそのコマというフレームの内側に存在できるようになる。

 

2)美術的言語:沈黙とその羅列

 

 

先に述べた文学的な要素は、視覚芸術にどのような形で詩的描写力として映されるのか。先ずはじめに台詞の無い場面を見てみることにしたい。まるで、無重力の空間に居るかのように、台詞や効果音が一切加えられないカットがいくつも登場する。インタビューで作者は以下のように述べてもいる。

(・・・)描き文字で「ポタポタ」や「ペラペラ」と描いてたところで「これは到底たちうちできないな」と思わされました。映画は音を出力できますが、マンガは出力ができない。音はマンガの弱点です。

【インタビュー】阿部共実『月曜日の友達』ネームを完成させるまでに1年! 描きたかった思春期の中学生男女と“大友克洋的SF”、そして憧れの“自転車2人乗り”

 

このインタビュー内容から、作者が何が「文学的」詩的描写力で、何がそうでないか、つまり「文学的」詩的描写力が如何なる場合にその力を発揮できるか、見抜いている。阿部共実は擬声語や擬態語に、詩的描写力が生きないことを承知の上、先ほどまで述べたような、文章の区切りや、その並べ方に着目したのだろう。それでは、ここで「たちうちできない」ものを、どう読者へ伝えるのか。それは描写しないことにあるのではないか。つまり、文字で心境や場面を綴ったのであれば、絵を描くことでその場に聞こえる音を、「様々に聞こえる可能性」として、残している。例えば、自転車に二人で乗ってかけてゆくシーンは、周りの音だけでなく彼らの笑い声も聞こえない。心地よい笑い声が聞こえてきそうな場面にも、作者の阿部共実は沈黙として表現することを貫いている。しかし、これは現実にもそうだが、私たちは笑い声を耳にする場に、決して笑い声だけが存在する訳ではないことを知っている。そこには、葉の擦れる音や、風の音、またペダルを踏む音も、存在する。そこには様々な音が存在しているにも関わらず、これをコマという際限の中に、更には文字で表現してしまうと、その全体像がひとつのイメージとして焼きついてしまう。

そこに存在する多くの音と感情をキャッチするためには、そのシーンを文字や言葉で飾り立てないこと、それが大切なのではないか。そのような表現を加えないことで、作者はその空間をひとつの全体像として浮き彫りにし、読者に多くの想像力を必要とさせる。そこには、想像力へと読者を走らせる、静止画の魅力が存在する。このような場面では、主人公二人の頭の中を覗くことすら不可能で、背景に描かれた場面がどのようなものかも、想像に任せられる。静止画の沈黙は、読者の想像力でフレームの中に映し出されるのである。無声映画にサウンドが加えられて表現力が増したのであれば、「月曜日の友達」に見られる静止画は、ストーリーが音に導かれるのではなく、読者がその沈黙に音を聞きだすことで、活き活きとする。

「死に日々」第2巻より「8304」「死に日々」第2巻より「8304」

 

このような静止画は、羅列することで、静止画同士の関係に、緊張を与える。それは時にクローズアップや角度の変化で一つの場面を多角的に捉え、そしてまた時には、前後の視点から見えなかったものを映し出している。これらが数列的なものではなく、あくまで羅列であるのは、前後のイメージにそれぞれ優劣が置かれていない点である。机、窓の外、たなびくカーテンなど、これらのモチーフはなんら説明や一言が与えられないまま、そこに並べられる。そして、それらはまた同時に何かを象徴するような、つまりストーリー上でキーポイントとなるようなものでもない。いわば、そこになくても支障の無い場面である。この特徴は、「死に日々」に収録された「8304」にも当てはまるのだが、ここでそれらのシーンはコマの流れとして並置されることで、前後のカットと関係を持つ。しかし、それら1つ1つは四コマ漫画の起承転結のような、割り当てられたはっきりとした内容を持つ訳ではない。各々の描写は、決して前後のコマと互いに内容的に関連するものではない。しかし、それでもそのカットが入ることで、読者はその流れを読むことで、ストーリーをより噛み締めることができる。それらは、なんら意味深なカットでもなく、もとより意味の無いカットである。海風にそよぐカーテンは、主人公二人の結末をなんら象徴もしていない。それなら、この意味のなさは、文学的言語、そしてまた美術的言語でどのように力を発揮し、評価できるか。

 

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