現代美術

【REVIEW】これは幻影‐絵画です:横山奈美《日産アートアワード 2017》

 

<<ダン・フレヴィンの作品は蛍光灯を置いただけでもあるが、光を放つことで幻影として空間に現われる。絵画にまつわる虚構・幻影の問題は、光というもので現れたときに物質的であると同時に、幻影として現れた。この点で、今年行われた日産アートアワードで発表された横山奈美の絵画は大変興味深かった。彼女の作品では光を放つ物質と、光という幻影を捉えただけでなく、それを絵画という幻影で表している点で評価できる。>>

 

1.現前と幻影:ミニマリズムとダン・フレヴィン

 

美術評論家ハル・フォスター(Hal Foster)は、『The Art-Architecture Complex』でダン・フレヴィン(Dan Flavin)の作風を分析しながら、それが―ミニマリズム(Minimalism)においてでもそうであるように―決して幻影的なものを捨て去ることが出来なかったと述べている。フレヴィンの作品に用いられている一本の蛍光灯や、ドナルド・ジャッド(Donald Judd)のアルミ板は、その材質や配列・構成によって、光を放つ結果をもたらす。クレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg)式のモダニズムが絵画というマテリアルに従属した以上拭い去さることの出来なかった幻影を、ミニマリズムは工業生産品をそのまま置くことで、著者の産物という概念と平面におけるイリュージョンの空間を拒んだと一般的に分析される。しかしフォスターの分析によれば、フレヴィンの作品はものとして現前すると同時に、幻影的である。置かれている物質は確かに「光を放つ」ものとして存在する。それは勢いよく描かれた筆遣いとして描かれたものとは異なり、ものとして存在する。しかし、その光が広がり、影と蛍光灯はまるで抽象絵画を思わせるように、その物質的な空間を消し去ってしまう。そのような存在、それは幻影として表れる。

 

 

Dan Flavin, Untitled (to Henri Matisse), 1964Dan Flavin, Untitled (to Henri Matisse), 1964

 

 

Donald Judd, Untitled, 1969Donald Judd, Untitled, 1969

 

 

Bruce Nauman, The True Artist Helps the World by Revealing Mystic Truths, 1967Bruce Nauman, The True Artist Helps the World by Revealing Mystic Truths, 1967

 

2.絵画としての幻影:横山奈美の「ペインティング」

 

この幻影というキーワードは、異なる形でブルース・ナウマン(Bruce Nauman)のネオンサインを用いた作品にも見出せるポイントではないか。彼の作品を見ると、ネオンサインを用い文章やキーワードを並べている。彼にとっての幻影とは、その光だけでなくそのテキストのニュアンスとも言える。テキストのニュアンスは、完全に表すことが出来ない。つまり、テキストのニュアンスは恣意的であり、デリダの言うような差延を伴うものである。それは存在していながらも、常に変化の可能性を秘めており、言語におけるこの特徴はナウマンによって光の存在と結び付けられた。

 

 

横山奈美 日産アートアワード 2017Yokoyama Nami, NISSAN ART AWARD 2017
横山奈美 日産アートアワード 2017Yokoyama Nami, Window, 2017

今年、日産アートアワードで展示された横山奈美の〈NEON〉ではこの差延や言語ゲームにおける幻影の意味とは別に、幻影としての幻影が描かれている。一見すると彼女の作品はフレヴィンやナウマンの蛍光灯やネオンを用いたものと変わらないように見えるだろう。人の顔や文字がライトの光で輝き、それを写真に収めたものと(私を含めて初めて絵を見た)多くの人がそう思うことだろう。しかしよく見ると、彼女の作品は精密な油絵で描かれている。それは光という幻影を異なる言語、つまりペインティングという幻影で表現したものだ。ここで描かれている文字や顔の輪郭といった光は、あるセッティング、そしてそれの放つ光を記録したものと考えた時、単純に光の線を描き写したこととは異なる。彼女の作品に現れる光のモチーフは、それが後ろにある機材から生まれたものであるということを見せている。それはリチャード・エステス(Richard Estes)をはじめとした、ハイパー・リアリズムの描いた虚構―ふたつの視点が混在するなどといった―を継承しているとも言えるだろう。しかし、彼女の関心はその光がセッティングを必要とする、つまり装置による虚構であり、虚構を生み出す特性を物質的なもので紐解こうとしていることにある。つまり、光を放つ蛍光灯の特性は、物質であると同時に幻影でもあり、後者は絵画という(表現においての)虚構の本質につなげられている。彼女の作品ではこの両者における共通点を見出せている。

 

 

Richard Estes, Thom McAn, 1974Richard Estes, Thom McAn, 1974

 

横山奈美 日産アートアワード 2017Yokoyama Nami, PAINTING, 2017

 

3.虚構として、虚構という真実を明す

 

「Painting」と描かれたキャンヴァスは、それそのものを表している。ルネ・マグリット(René Magritte)が「これはパイプではない」と描いた・書いた〈イメージの裏切り(La trahison des images)〉(1929)は、絵画における幻影(=パイプの再現)と絵の具、そして絵と文字という概念を揺さぶっていた。横山の作品を見ると、「これは絵画である」「これは幻影である」と堂々と伝えている。ここで作品は、まさしくその材料、そしてその材料の備える効果としての本質に立ち返っている。ミニマリストが「ものそのもの(thing itself)」を提示したのであれば、彼女の作品は絵の備える「虚構」という性質をそのまま伝えているように思える。彼女の作品は、パラシオス(Parrhasios)がカーテンを描いた時代から続く、絵画をとりまく実物・実在と虚構の緊張関係を解く方法として、描かれたモチーフとその表現の間に見出している。絵の本質である虚構が、セッティングされたライトニングの「リアル」を通して描かれていると言えるが、ここでいうリアルは、幻影を、つまり光を生み出し解き放つ、蛍光灯やネオンにあるということだ。つまりモチーフの裏舞台まで描くことで幻影を見せ、そしてモチーフを描くという行為を通じて幻影を表している。かつてナウマンが自身の作品で「真の芸術家は、神秘的な真実を明かすことで世界を救う」とネオンサインで表現した一文は、横山の作品では「虚構として虚構という真実を明している」と言い換えられるのかもしれない。

 

(editor K4ø)