個展

【REVIEW】叫び声は現場に聞こえない:イム・フンスン×百瀬文<交換日記>

 

先日、3月30日、韓国国立現代美術館ソウル館(MMCA Seoul,국립현대미술관 서울관)で、芸術家イム・フンスン(Im Heung Soon, 임흥순)の個展「私たちを隔てるものたち」に特別上映プログラムとして、作品<交換日記>が上映された。日本の映像作家百瀬文(Momose Aya)との共同制作として、2015年に新美術館で行われた《アーティスト・ファイル2015:隣の部屋》をきっかけに進められたこの作品は、今回の上映に当たって、2018年のパートが初公開となった。作品に触れ、考えたことをここに記そうと思う。

参考:次第に粒となる滴のように:百瀬文, 〈定点観測[ソウルの少年少女の場合]〉(2017)

 

一般的に交換日記とは、日記に備えられた特性をある程度拒む。なぜなら、自分自身の気持ちを内密なままに綴った記録物が、私の引き出しから他の場所に移ることを許してくれるからだ。この場合、移動はその綴った内容が本人から、日記を交換する特定の他人へと渡る事実もまた含んでいる。また反対に、私もまたその人の私生活に立ち入る場が生まれ、日常を覗き見ることができる。この時、「私の」視線に「他の人」の視線が介入する。この前提に従ったとき、記録物は記録する段階そのものから統制を受けたまま、制作される。これはなにも、私もまた母親の保護を受けて育った、という意味ではない。ここで言う制作過程の統制とは、私が行う記録という行為そのものに、他の人の視線が含まれないことがない、ということを意味する。しかし、その条件下にあるという事実のみを考えた時にそれは統制と言えるが、だからと言って、ここで書き記す主体が全くの無力というわけではない。堂々と自分の話を書き留めることもできる。だが、それでもこの内容を読んで、相手がどう思うかと気にしてもいる。ここで、完全に日記におけるとても私的な属性に隙間が生まれる。私が書く内容は、勿論私の言葉ではあるものの、すぐにでも推敲をお願いされるかのように、その時、誰かが隙間から私のことを見つめている。この時、それぞれ内と外から投げかけられる私と他者の視線が交差する。私はノートに視線を送って気持ちを記すが、同時に「こう書いてもいいのかな」と躊躇っては、私の気持ちと断絶されてしまう。この断絶こそが、日記の私的な属性に隙間が生まれたことをよく表している。

これは国立現代美術館ソウル館で行われたトークで、百瀬文がSNSの話をした内容ともつながる。タイムラインに流れ出る私生活や経験談、今日においてそれらは自分だけでなく、他の人へ見られる前提に基づいている。この前提は、自分自身の内面と同じくらい大切な位置を占める。自らに投げかける視線が確かに存在しながらも、ある他者、つまり読者をそこで念頭に置いている。一般的に交換日記、そしてSNSは共に、「私的」という単語に括弧をつける必要が生じてくる。それは人間は一人で生きていけず、共に助け合って生きてゆくということではない。共有という単語の下、私の話を自ら打ち明けるその場に、私ではない他の人の存在が条件付けられるという意味だ。よって、私の気持ちは多くの人の視線を受け、文章として可視化される以前に、既にその視線の影響を受けている点が重要と言える。つまり、文章として書かれた結果物ではなく、文章にする生成過程で既に、外部の影響を受けている。

イム・フンスンと百瀬文の共同制作<交換日記>(2015-2018)は、このように他の人の視線が介入する点でSNSと似通う箇所がある。だが、前者が2人の作家同士、つまり特定の対象を前提とするのに対し、後者は不特定多数の人が前提となる。記憶や経験談を映像に吐露する点で、そして特定の人を対象にしその人同士で共有するという点で、この作品は交換日記の特性を表している。しかし、ここで互いに交換されるものが文章ではなく映像で、また一人が送ったものに他の一人が言葉を付け加える点で、一般的な交換日記とは異なっている。作家の二人は映像をもらいながら受け取り、相手の送ってくれた映像に自ら言葉を付け加える。イム・フンスンが送った映像に、百瀬文は自らが記した文章に合うように映像を編集し、逆に百瀬文が送った映像に、イム・フンスンはまるで手紙を読むかのように(この点については、やはりイム・フンスンが「です・ます」調で話していることが大きい)話している。

お互いに送った映像、それにそれぞれ個人の単位で話を吹き込む方法で作られた作品。それでは、ここで交換日記の「交換」の備える位相とはどのようなものなのか。まずこの作品で交換という単語が一層強調される理由が、二人の性別、住んでいる国、言語が違う以上、送る映像にもまた違いが生まれるだろうという前提に基づくからだ。この時の交換という言葉は、意見の単純な往来ではなく、相互の違いに注目がされる。交換の一般的で一次的な意味が存在する一方で、この作品を進める方法においてまた別の交換がなされる。二人は送った映像を相手の声に浸透されてしまう。またその反対に、送ってくれた映像に自らの言葉を吹き込む。相手の言葉が重ねられて、このとき交換という単語は「交差」の意味により近くなる。つまり、私の言葉(映像)と他の人の言葉(声)の交差された結果物として、<交換日記>は存在する。よって、ここで言う交換とは、単に日記を記録物として交換することを意味しない。交換は単純な往来ではなく、相手の見たものを私が見る、つまり代替された視線としてイメージを異なる形で照らしだす。つまりそれは、私の視線が他の視線に取って代わり、映像のイメージが読まれることを意味する。

よって、<交換日記は>共同作業でありながらも、互いに視線を送り、またそれを受けて意味を(もう一度)読み解く方法に近い。つまり、日常にありふれ、意味を与えられなかったシーンが、記録物という形で事後的に見られるようになりながら、過ぎ去ったイメージを照らし出すことができる。それだけでなく、反対に、撮影者にとって重要だった特定のシーンが、他の人の視線に晒されることで価値を拒まれる可能性もある。この時、映像は何も語らない。映像に登場するイメージは事実に照合されて説明されることもなく、むしろ主観的な言葉の力によって重みが増す。なので、この作品は記録物を単に観る訳ではなく、単なる記録物を文章ではなく、自分の言葉で解きほぐす点で重要と言える。映像を撮影した撮影者の視線は、ここで読解する他の人の視線に取って代わる。二つの視線は異なり、まるで他の人の夢を覗きながら語ることにも似ている。この時、作品はそのイメージの出処がほとんど無効化されてしまう。つまり、私が撮った映像が本人の視線から離れて、相手の感情移入が行われる対象となる。ここで映像の意味はとても潜在的と言える。つまり、他の人の視線に突き刺さる存在を備えたまま映像はじっとしている。そしてその存在は、映像を見た他の人によって浮き彫りにされる。はじめから意味の与えられていない、もしくは撮影者の(比喩的な意味でも)声が加えられたイメージは、他の視線に受け渡されながら「新しいものとして」語られる。この点は、百瀬が昨年ソウルのナンジで制作を行った作品と似通っている。<定点観測[ソウルの少年少女の場合]>(2017)もまた、一種の記録物の形を帯びている。この作品では、作家が作ったアンケートに学生達が答えを書いて、順序どおりに読んでいく。この時、その一つ一つの答えは繋げられて「分断国家の現実」というテーマを浮き彫りにさせる。しかし、質問を読むとそれとは関係のないように見えてしまうだけでなく、学生達もまた全然関係のない答えを選択肢から選び、書くことも出来る。それでも作品を観ると、その答えがテーマを浮き彫りにさせる強力な要素であることが確認できる。それらは直接テーマを語らず、それを示唆するように観る者へ伝えられる。

<交換日記>で二人が撮った映像は、それぞれの視線を通過して再度読み解かれる。では、この映像を作品として、どのように位置づけることが出来るのだろうか?二人の間で互いに行われたやりとりが、不特定多数の観客の前で紹介される時、作品としてどのような位相を備えると言えるのだろうか?実のところ、筆者はこの点について確かな答えを未だに見出せない。今回は交換日記の元の意味として、また制作過程にフォーカスを当てて作品を分析した。この延長線上で一言だけ付け加えるとするなら、この作品は、デモの行われている現場の存在に気付いてもそれを気に留めないのと似ている。遠くから叫び声が聞こえると、その現場の存在に気付くことが出来るものの、その位置までは確認できない。その声は手がかりとして与えられる情報に過ぎない。作品にもデモの様子が映し出されるが、この映像を受け取った相手側の作家は、その現場にいた訳ではない。視覚情報と記録物として伝えられたイメージは、撮影された場所、撮影者の存在、そして捉えられなかったものまで余すところなく含んで、その位置を離れる。よって、痕跡として記録されたイメージは、撮影者の傍を離れるとその源泉と結束が切れてしまう。映像が記録物の形で他の人へと伝達されながら、イメージの原産地とは結果的に接続が切れてしまう。交換という単語は、この時になってようやく視線の代替という言葉で言い換えることが出来る。この条件下において、イメージは主観的に解かれてゆく。なので、映像に声を重ねる主体は、デモの現場ではないシーンを見て、反乱の種子を内面的に照らし出す。自らの叫び声は淡々とした口調で、そして過激でないシーンに表れる。

紺野優希