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【REVIEW】オブジェにつきまとう幻影 (1):益永梢子《Daily routine》

絵画というキーワードを持ち出すとき、頻繁に平面性(flatness)や幻影といった特徴が確認できるだろう。前者はよりキャンバスというメディウムに基づいた考え方であり、後者はペインティングの行為に基づいた考え方と、大まかに言うことも可能だ。ここでペインティングの行為について言うのであれば、幻影を生み出す特徴は幅広く考察が出来る。というのも、目の前にあるものをそっくり写すことだけでなく、想像の世界を描くことも可能だからだ。つまり、現物と架空のものという両極端の対象と距離を狭めることが、画家には可能なのだ。この考えで進めると、現物と架空のものは「コピー」と「創作」と分けて述べるのではなく、画家にとってその2つは共に対象であるという論理で進めることが出来る。つまり、目の前にあろうとも、またはそのものが置かれている場所から離れても、もしくは頭の中にしか浮かんでいなかったものも、キャンバスの上に置き換えられると、共に幻影として表れる。

この幻影という特徴は亡霊―前者の場合では尚更―とも言い換えることも出来るが、というのも、キャンバスに写された日用品や美しい来世を得ることは、そのもの自体を得ることとは異なっている。その時私たちは、現物や理想郷の抜け殻ともいえるものを所有することになる。描かれたものは、掴もうにも掴みきることのできない、謎めいたものである。そこには遠近法によって表現された奥行きや空間と同じくらい、手の届かない現実感が存在する。ここで言うような現物と架空のものを写す行為もそうだが、それだけでなく、キャンバス上に対象を捉えた時に生まれる奥行きなどもまた、幻影と言えることが出来る。正にこの特徴によって、幻影の位相はより高められていると言えるだろう。つまり、平面に平面ではない要素、言い換えれば3次元の空間を生み出すことは、その帰着するマテリアルが平面である事実によって、幻影を生み出す絵画の特徴を一層強調するのである。

左:<うとうと> / 右:<salt & pepper>左:<うとうと> / 右:< salt & pepper >

益永梢子の作品は、この幻影という特徴によって、一般的なオブジェとは言い切れないものを、作品から感じ取ることが出来る。先月、水戸芸術館のクリテリオム93で開かれた個展《Daily routine》に取り上げられた作品は、絵画的な要素とオブジェ(立体)の要素を同時に表している。所々塗られた箇所と、丁寧に作られた立体、または床へ直に置いたり、壁にかけられている様子を見ると、その作品が絵画と彫刻との妙なる関係性を示唆しているようにも思える。私が作品から感じとった絵画の特徴―または絵画らしさとでも言おうか、それは先ほど述べた幻影(性)ではないか。しかしだからといって、ここで述べるそのキーワードは、前述したペインティングを取り巻く幅広い内容より、はるかにに狭い。展示会場に置かれた作品から感じられる幻影は、まずそのオブジェに見られるボリューム、または空間感のことと言えるだろう。シンプルな形をした箱のように見えるパーツは、それがもともと薄い材質で出来ていることが、横から見ても確認できる。しかし、その中は空洞なのか、または何かがつめられているのか、分からない。ここで分かる事実は、そのスペースに何かがつめられていたとしても、それは空洞である可能性によって与えられている条件ということだ。つまり、何かが入っていてもそうでなくとも視覚的に伝わるそのボリュームを、作品に見て取ることが可能なわけだ。ここで鑑賞者は、絵画とはまた異なる幻影、つまり2次元性をもって表現された奥行きではなく、実際に立体を作ることで生み出された奥行きを目の当たりにする。

ここで、壁にかかっている作品にも奥行きが感じ取れるのは、そのオブジェが薄い何かで作られたことがはっきりと伝わるからである。ディディ=ユベルマン(Georges Didi-Huberman)がミニマリズムのオブジェに見られる「目に見えるものが全て」というテーゼを批判したように、益永梢子の作品ではその材質、または折り方が確認できることによって、ボリュームが生み出されたという事実が一層強調されている。何も無くても、またはそこに何かが詰め込まれていても、ボリュームは常に充たされているものとして表れる。それは絵画に表れるような2次元に基づく幻影―つまり、3次元の創出やモチーフの再現―ではないにしても、掴もうとしても掴めない空間性として、作品には幻影のように表れる。その箱状の物を開いたときに、同じサイズと厚みの鉄板が無い限り、そこにあるボリュームは消えてしまう。(ディディ=ユィベルマンの主張に従うなら、「または根本的に、消失を含んでいる。」)何故なら、それは作られた厚みであり、重量感だからだ。この推測は、作品<今朝みた夢1>において、平面へと帰着している表現方法を見ても、認めることが出来るだろう。つまり、そのボリュームは絵画の平面性と共通する材料の薄さによって表れた、幻影なのだ。

<今朝みた夢1><今朝みた夢1>
<草木に水を><草木に水を>

そこでは、作品に絵の具が用いられた事実以上に、作品は絵画の特徴を共有している。先に述べたこの特徴が、ボリュームの演出に基づくのであれば、他方で、その奥行き上に生まれた平面もまた、絵画の特徴を共有していると言える。展示会場に並べられた作品は、そのパーツの配置と構成によって、コラージュのようにも見える空間性を共有している。コラージュがそれぞれ別の記事からスクラップされ、平面へと並べられながら新たな空間性の内に位置づけられるように、益永梢子の作品でもまたモチーフ同士の位置関係による空間認識が、新たに生み出されている。しかし、そこでは(コラージュがそうであるように)別個の空間から抜け出たモチーフが、平らなマテリアルへ帰着することで生まれる空間ではなく、平面と立体との間に空間認識が生まれる。ここで作品<草木に水を>を見ると、平面と立体のオブジェが相応する箇所が見受けられる。オブジェの形に合わせて切り取られていたり、色が塗られていたりする。つまり、平面に塗られた絵の具と、立体で作られたオブジェ、そのシンプルで平面的な色を基調に、ある対象と対象の間に不思議な空間認識が生まれている。それは、支持体という平面ではなく平面的に見える表現と言うことが出来る。つまり、キャンバス上に奥行きを見出すのではなく、実際に存在する奥行きの上に、平面を生み出しているのである。ここで幻影は、掴むことの出来ないボリュームとしてだけでなく、空間認識を消し取ってしまう平面への表現、つまり平面を意識した表現として同時に表れている。

紺野優希