まとめ

【連載】断想:批評のプラットフォームとは《와우산 타이핑 클럽》(Part 1)

2. ワウサン・タイピング・クラブ(와우산 타이핑 클럽)

《Hovering》にてのプログラムを告知した、ワウサン・タイピング・クラブのTwitterアカウント

ワウサンの場合、他のグループと比べた時に比較的いろいろな人が集まっている。人数(10人!)からというのもそうだが、批評文を書いてみたい人、雑誌の編集者として働いている人、美術の実技専攻だった人など、そのバックグラウンドや好みの作家まで様々だ。共通点を挙げるとすれば、共に弘益大学の芸術学科の同期であるという点、それ以外では主に批評文のテーマがコンテンポラリーな展示・作品に絞られている点、そしてより根本的には、コンテンポラリー・アートが好きな院生たちと言える。(そして、その中に私も含まれている。)

私の場合、グループに入りたいと思った理由として先ず、批評・評論を書いている人がそこにいるという、安心感である。それまで細々と書いてはいたが、誰もこの展示なんて、、とか誰も自分の文に目を向けてくれない、、と時たま(今もそうだが)思うことがあった。だからといって、インスタにあがるような「展示なう」とも違う。展示を見た前提で共感をしてもらう、そのような場が欲しかったのである。コンテンポラリー・アートという特定の分野(むしろアートシーンという界隈では広い気もするが)を単なる知人に説明しようと思ったら、日が暮れてしまうし、相手も日が暮れることを好ましく思っていないことが多い。興味や関心のある人との繋がりがあってこそ、批評文や評論文をその相手にすすめられる。私の場合は、この共同体意識みたいなものが必要だった。いや、もっと大雑把に言えば、ないよりかは、あったほうが嬉しい、というくらいに考えていた。

それにつけ加える形で、作品や文への反応が共感だけでなく、一種のフィードバックとして帰ってくる点も魅力的であった。私はこう作品を読みとったとか、この説明は分かりづらいと言ってくれることで、自らにおいても視野が大きく広がるのである。展示会に皆で行き、その後カフェで話し合ったりするとき、また記事をアップする前に推敲してもらうとき、自分が思ってもいなかったことに、これまで幾度となく出くわしてきた。プラットフォームとして活動することは、このように自分の視野を「より積極的に」広げられる/広げることができる。これは逆を正せば、それほどまでに自分自身を他者として見る事が難しい、ということとも言える。

3. また前に逆戻り

김효재《Hovering》に展示されたキム・ヒョジェ(김효재)の〈ナンマドル〉

というのも、(自分の場合特に)批評や作品の感想を述べるとき、それで既に満足してしまうきらいがある。ああ見ることもでき、こう見ることもでき、という視点がひとつしか残らず、挙句の果てには自己陶酔してしまい、どうしても見逃すものが生まれてしまう。この距離感を保つことが、なかなか難しい。書けば満足してしまい、それらしい文章で終わってしまう。しかし、プラットフォームがあれば、「いやしかし」とアドバイスや異なる視点が混在するようになる。私はそれでも自分なりに「ほかの人を見るように」自分を見てきたが、それでも他のメンバーの一言に気付かされ、感化されることも未だに少なくない。

これは作品だけでなく展示会への評価も同様である。皆それぞれ展示会を見る基準が、そのチョイスから始まり、完璧に同じではない。自分がつまらないと思っていた展示が、見方によっては面白く見えたりもする。(これはどこか話の長い校長先生の「話」だけに集中していた人間が、横の友達に「口癖」が面白いとこそこそ言われる感じに似ている。)私の場合、3つに分けて書いたThe Scrap(더 스크랩, ザ・スクラップ)が「初めてということもあって」新鮮であった。しかし、去年のThe Scrapに行った人は、今年は写真がどうだった、などと比べることも出来る。いち芸術家の作品を年代ごとに比べるのと同じ様に、それくらい展示自体の吸収力も批評に必要である。しかしハーマイオニーではない以上、いくら望んだところで終了ギリギリの展示に、数箇所同時に辿り着けはしない。これは一人で展示を見る上であまりにも、そしてかなり極論ではあるが、肉体が一つという点における、限界である。もちろんインスタやTwitterで共有される時代ではあるものの、それでは見えない―先ほどの視点の話にも戻るが―視点が生まれてしまう。

それなら、ほかの人から聞くほうが、まだいいと私は考える。というのもその人は「描写」においては画像に劣るとしても、それを「どう読みとったか」がはっきりしているからだ。しかしそれよりも重要なのは、その展示が「ギリギリ」なるまでに、メンバーから情報が得られ、彼らが皆関心を持っているから「ギリギリでも」見ようと思えるのだ。これが一人の場合、見なくてもいいや、という―視点の話にもつながるが―自己解決で終わってしまう。だから、一人で見れなかった展示や作品、これらについては私の考えでは「後悔」すべきだと思う。行くことによってはじめて、自分の眼で「よかった」「微妙」「言いたい事は分かるけど・・」といった、評価が出来るのである。私がそれがコンテンポラリー・アートや展示に対する姿勢ではないか。

(Part 2へ続く)

 

(editor K4ø)

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