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【REVIEW】格子は壊されないまま変奏される:クァク・イブ《とししと し》/ 곽이브 《도시시도 시》(TK&G 상상마당)

 

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CGのイメージをプリントアウトして壁に貼る作品で知られているクァク・イブ(곽이브)の個展が、今回ソウルにあるKT&G サンサンマダン(상상마당)で開催された。タイトルの「とししと し」は「都市」という単語からきているが、韓国語の発音に直したとき「と」の発音が音階の「ド」と同じ発音・表記になる。これにより筆者はこの展示のタイトルを「ドシシド シ」と解釈することから作品の分析を始めようと思う。

目次

I.

街を歩くとき、人々の流れが流動・遊動的なのに対し、その導線を作り出す建築物はその場で動いたりはしない。その建物が躍動的と思えるのは、地価高騰で経営が難しくなったソウルの中心部においては、通いつめていたお店が数ヵ月後には別のお店に変わってる場合くらいではないか。しかしこのときの躍動は時差を想定した上で繰り広げられるダイナミズムであって、建物そのもののダイナミズムではない。いわば、枠組み内におけるダイナミズムと言える。短いタームで店は変わり、どんなお店にもなれる姿としてそこには「空白としての宇宙」が存在している。ここで店が様々な形で生まれ、そして消え去っても尚残るのは、その枠組みと言える空白だけだ。

そのような場所は、都市というどこか固いイメージというより「開発都市」の印象が否めない。というのも、変貌を繰り返す、つまり「常に開発途中な」姿として一種のアイデンティティが保たれているからだ。それに比べた時、ソウルのカンナム方面、正しく今回クァク・イブの個展が行なわれた地域は、都市のイメージと言われても納得できるところがある。ホテルや会社の高層ビルが立ち並び、その中を人は歩いている。観光客でごった返すソウルの中心部(ミョンドンやホンデを思い浮かべて欲しい)では足取りがあっちこっちへと向かうのに対し、ここでは会社員をはじめとした人が規律的に活動をしている。ここで「規律的」と表現したのは、交渉を行ってオフィスに戻るといった、一連の単線的な行動「パターン」からも窺えるはずだからだ。この単線的な行為はクァク・イブの作品に視覚的に見て取れる特徴でもある。

II.

今回の展示で用いられたイメージは4種類に分けられ、共に2015年の「面対面(Face to Face, 면대면)」シリーズに基づいている。4種に及びイメージは、それぞれ「様々な時間帯の建物のガラス窓」「建物の窓と外部塗装」「建物の窓に差した日光が反射した形状」「季節感あふれる葉っぱのトーン」に分けられ、今回の展示にはそれぞれ6・3・3・1の計13種に及ぶイメージが確認できる。だが、その参照されたイメージの元が多様ではあっても、その様態、つまり長方形のサイズ、混ざらない色使いでCGのイメージをプリントアウトし、それを壁にきっちりと並べている点では規律的な側面が強調されている。このような特徴と歩調を合わせるかのように、今回の展示は「とししと し(도시시도 시)」と節制された文字・単語の繰り返しが垣間見える。

だからといって、この展示が単調に尽きるかといわれたらそうではない。むしろその単調さを引き摺りながらも、そこに一種の躍動感を見出している。これらのイメージを用いて、作家は空間に様々に並べていく。昼のイメージの横には夕暮れのイメージが並び、時折ジョセフ・アルバース(Josef Albers)の作品を思わせるような配置が施されている。そこには一種の規律と共に、その中に見出されるパターンの組み合わせという変奏が展開されている。それはタイトルに直接的に表れる「都市」のニュアンスだけでなく、「ド」「シ」という音階の繰り替えしにも結びつけて考えられ、ここで作曲家スティーブ・ライヒ(Steve Reich)の音楽を思い起こすことが出来る。ミニマル・ミュージックとして数えられる彼の作品に、都市をイメージして作曲されたものが幾つかある。〈New York Counterpoint〉 (1985)の曲調と「対位法(counterpoint)」という言葉は、クァク・イブのその展示で色彩の対位法、つまり独立するもの同士の調和を試みた(その組み合わせが適切かは判断しがたいが)と言えるし、〈City Life〉(1995)ではサンプリングした声もまた、トーンの一定なうぐいす嬢や券売機の音声のように単調な繰り返しに抑えつけられている。

同様に都市と人間をモチーフにした曲の内に、ガーシュウィンの曲〈パリのアメリカ人〉(1928)をあげることもできる。だが、この曲でその場所(パリ)を歩くことで生まれた人の心境変化、いわば感情の流れにフォーカスが当てられていたのであれば、ライヒの曲は、都市は確固とした部分を備えつつも、見方、つまり目の運動によって変わってくる様子を描いている。パリという都市を些か主観的で感傷的に描き過ぎたガーシュウィンとは異なり、ライヒの場合は視覚情報と合わさって「都市での経験」ではなく、「都市の見方」として絵描いている。どれもこれも似通った建物、その妙な違いをキャッチし音楽にそのバリエーション(変奏)を加えたのだとすれば、クァク・イブの場合は時間帯や窓に映った建物の風景、そして目に映る建物を会場に表している。それは、確固とした建造物に「見方」によって与えられた変化をキャッチしている。

III.

このような点でクァク・イブの作品は常に表面的にのみ映るところが興味深い。一つの方法として、ここで薄っぺらい紙を用いたとしても、それをしっかり壁にくっつける方法もできる。だが作家の作品では下や片方が固定されていない。つまり、ボリュームをもたせたビルとしてではなく、その表面を軽く叩く(flap)ように、ビルではなくビルを見る者としての経験を表している。映し出された都市のパターンを会場で変奏させたように、都市を経験することも、幾つもの瞬間が「めくり」変わるスクリーンになぞられる。この凝縮された形が、今回の展示によって表れている。よって、会場はビルとしての表面を再現したものではないし、ましてはしっかりと貼り付けて内部をビル化しているわけはない。そこにあるのは真昼のビルに映った青さでも、少々目立つ外装の明るい色合いでもない。そこにあるのは、見方としての都市と言うべきだろう。

この点で、今回の展示がオフィスが多く並ぶカンナムという地域で行われたのは興味深い。昨年2017年に趣味家(Tastehouse)で行われた展示は、都市を経験するという感覚というより、そこのスペースで際立つ大きな窓をメインに内と外の関係を描いている。つまり、その窓を会場から見たとき外に見える風景ではなく、外という広い世界に映った内部への眼差しである。それはカーテンのイメージが反射を伴って描かれている点に見て取れるだろう(下の写真参照)。これとは異なる形で、今回の展示で作家は過去作を通じて都市の見方を具現化している。だがこの経験の仕方は、子供用の劇場の横のスペースで展示された今回の展示にて多少単純な形となってしまったかもしれない。というのも、折り紙を折るという観客の参加が求められなくとも、展示自体に既に(ウィリアム・ギブソンの詩にあるように)格子を解読(decode)する」者としての経験が表れているからである。規律的な街並みや通りを解読するとき、流動的ではない歩みと単調な風景から得られたイメージは瞳孔の忙しい視覚情報として主体に伝えられる。

クァク・イブ《Part》2017, Tastehouse 「곽이브 역할」の画像検索結果

クァク・イブ《Part》2017, Tastehouse

そして、この都市を経験することは、会場にある建物のようなオブジェにも表れている。子供の背丈よりやや低い、この簡素な構造物の中には何もつまっていない。そこに何かがつまっているという経験は、都市を歩くものには大して大事なことではない。都市で経験する、いや都市を経験するということは、パターン化された環境(人も建物も含んだ)に視覚情報として変奏が加えられることだ。それは目からはじまり、目に留まる。そして格子は壊されること無く視線の逸脱という形で変奏される。

紺野優希

 

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