まとめ

【中編】勝手に#ブックカバーチャレンジ!~韓国H大学の芸術学科編~

はじめに

勝手に始めた#ブックカバーチャレンジ!~韓国H大学の芸術学科編~【前編】、意外と多くの方に読まれているようで嬉しいです。カバーだけ載せるより断然いい企画になってます。

さて、続く【中編】と【後編】は、大学院で触れた本について紹介いたします。

二回に分けた理由として、【中編】では授業で扱ったもの、【後編】では授業以外で読んだものを紹介しようと思ったからです。

学部の頃より自主的に勉強することも増え、また読むことにも時間を費やすことができました。「その中で7冊だけ紹介するのは勿体無い」、、と思い、盛りだくさんで紹介することにしました。

今回は授業で扱った本について紹介します!それではチェックしてみましょう。

その前に:芸術学科修士課程について

芸術学の修士課程は、H大学(【前編】を参照)の場合、いい意味でも悪い意味でも「学部の延長線上」です。

美学の修士課程と美術史学の専攻もありますが、カリキュラムとしては「幅広く、しかし浅い」スタンスに近いです。

そして更に言えば、Y教授(これも【前編】参照)の授業なんかは、殆ど学部の授業と変わらない。関係性の美学、Pictures Group、などなど紹介されるが、(私を含め)大学の芸術学科卒業生からすれば、「またかよ・・」という感じ(いや、何度も教わることは大事ですけどね)。

ちなみに、同期は入学時なんと30人越え!後期入学(9月入学)まであわせると、40人近くになります。これは修士としてはどうなんでしょう・・H大学のがめつさが窺い知れますね・・!

同期には実技専攻出身のメンバーも多く、広く浅い授業(特にY教授)の場合、なかなか分かりやすいのでは、、と思いきや、やっぱり難しい模様(そもそもY教授の授業の進め方には学部生からも異論が沸きあがっている。ごめんなさい)。

#ブックカバーチャレンジ~韓国H大学の芸術学科・修士編~

授業の話しに戻ります。今回紹介する本は、主に次の3つの授業で参考になった本です。一つは「芸術社会学(以下「芸社」)」、次に「メディア・フィロソフィー1(以下「メフィ1」)」、そして博士課程の授業「メディア・フィロソフィー2(以下「メフィ2」)」です。3つの授業のスタイルは、毎週本やテキストを読む課題が与えられて、要約文の発表+討論という感じです。

前置きが長くなりました。本をチェックしてみましょう!

①『アート建築複合態』(ハル・フォスター、キム・ジョンへ訳、2014、現実文化)

「メフィ2」のメイン。チャプターの内「リメイクされた彫刻」を授業で読みました。ほかに、フリードリヒ・キットラーの『Optische medien』も読みました(が、出張で授業に参加できなかったこともあり、書斎に埋まったまま)。

ここで「メフィ1」と「メフィ2」の簡単な紹介をしますと、批評家としても活動(批評文の受賞歴もあり・・)しているクァク・ヨンビン教授(以下「ミスターY」、Y教授とは全くの別人)による、芸術学科のハードコアです。

まず、英語・韓国語問わず読む量が多い。そして、(ミスターYをして言う)セミナー式。つまり、テキストを読んできた前提で、授業が学生たちの発言と討論を中心に進められる。ミスターYは、学生の発言や討論を踏まえて質問をしながら、授業を行う。

ときに学生の発言がまったくなく、両者1時間沈黙しっぱなし、学期半ばにリタイア続出というという怖ろしい授業は、テキストを読むことについて、改めて考えさせられる授業でした。ということもあって、【中編】で紹介する本の多くは、このミスターYによる「メフィ1」「メフィ2」が占めています。(カムサハムニダ、ミスターY!)

ハル・フォスターの紹介が疎かになってしまいましたが、クラウスの「拡張された彫刻の場」(因みに「メフィ1」でも紹介される)とは別観点で、リチャード・セラやドナルド・ジャッドの作品を分析しています。

②『The Wretched of the Screen』(ヒト・シュタイエル、キム・シルビ訳/キム・ジフン監修、2018、Workroom Press)

ちなみに、ヒト・シュタイエルの『Die Farbe der Wahrheit』も昨年出版されました。どちらも表紙がカッコいい!

こちらは「メフィ1」で読みました。本は学部4年生のとき(2016年)に買って一度読んでいましたが、全然理解できてなかった、、と考えさせられる授業になりました。たとえば、シュタイエルの言う「アウラ」が、単に「原本の一回性によるもの」だけではなく、如何にしてベンヤミンが展開するイメージの存在論と(そして彼の他の著作で部分的に登場するアウラの捉え方と)どう異なるのか/同じなのか、かつての論理が如何にして同時代的な事象と結びつくのか、考えさせられました。

ちなみに、初版(2016年)には誤植が多い、、ということで、数年後、映像研究者のキム・ジフンさんによって、改訂版が出版されました(上の死画像も改訂版です)。どっちも表紙がカッコいいのは、アート関連の翻訳書や書籍を出版しているWorkroom Pressのおかげですね。お店に置いてあるだけで、欲しくなる。

③『Voyage on the North Sea』(ロザリンド・クラウス、キム・ジフン訳、2017、現実文化A)

 

上述のキム・ジフンさんによって翻訳された一冊。「Voyage on the North Sea」に加え、「Reinventing the Medium」も収録されています。こちらは「メフィ2」で紹介されました。個人的にも読んでいましたが、なかなか進まなかったので、動機付けの意味も込めて受講!

ちなみに、芸術学科の修士の卒業条件に、「総合試験」と言われるものがあって、3つの科目の筆記試験・レポートがあります。中間期末のレポートとは別個のものです。勿論、なるべく簡単なレポートやテストにする学生もいますが、どうせなら果敢に勉強しようと思った私は、「メフィ1」を3つの内に含めました。その時のテーマが「ロザリンド・クラウスの論考におけるメディウム・メディアについて述べよ」で、こちら『Voyage on the North Sea』をはじめ、「拡張された場における彫刻」などを参照しながら、7ページくらいのレポートを提出しました(もう2年前か・・)。

④『Inside the white cube:The ideology of the gallery space』(ブライアン・オドホーティ、キム・ヒョンスク訳、2006、シゴンアート)

こちらは「メフィ2」の冒頭でちらっと読みました。今となっては古典のように扱われてると思いますが、面白かったのは、テキストと収録されている画像をパラレルに読み解く姿勢を授業で指摘されことですかね。ベンヤミンの「写真小史」やバルトーの『カメラ・ルシダ』などでもそうですが、画像が単なるテキストの参考資料として配置されているだけでなく、充分にテキストが語ろうとしていることを表象するものとして、置かれている。そういう読み方として、とても興味をそそるものがありました。

もしかしたら当たり前というか、無意識的にできることなのかもしれませんが、その後の批評活動(といっても韓国語ばかりであれですが)で画像やイメージをテキストと一緒にどう扱うか、改めて考えさせられることになったのは、間違いないです。

⑤『ポスト・プロダクション』(ニコラ・ブリオー、チョン・ヨンシムほか訳、2016、Graphite on Pink)

ミスターYの授業に日々(色々な意味でも)驚きを覚えていた頃、発表の回が早くも回ってきたときの一冊がこれです。読んで、まとめて、意味が分からなかった箇所(と理由)を発表するという、今思えば難易度の高い「解読」が求められた授業でした。授業も私一人だけ外国人だったので、色々とストレスを抱えながら発表したのは(そして意外と教授からの評価も高かったのも・・)いい思い出です。

ちなみに、『ポスト・プロダクション』に続いて、デイヴィッド・ジョスリットの『アフター・アート』を授業では教わりました。教授の意図がある意味ではっきりしていたのは、「ポスト」と「アフター」の違い――単語については、ジョスリットも冒頭で述べている――だけでなく、制作/プロダクションをアートとして、若しくはアートを介してどう分析できるかについて、二冊を比べられたところですかね。(これを機にもう一度、二冊を同時に読み直そう・・・)

余談ですが、出版社の「Graphite on Pink」によると、もう絶版確定!だそうです。。持ち歩きやすいサイズで、なかなか良かったのに、残念!

⑥『「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」ほか』(ヴァルター・ベンヤミン、キム・ヨンオクほか訳、2010、キル)

収録されているのは「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」と「ボードレールにおけるいくつかのモチーフについて」、そして「中央公園」。芸術と関連して、「複製技術時代の芸術について」も「写真小史」も読みましたが、総合試験に出たからということもあって、こちらは何度も読み直しました。総合試験の「芸社」のレポートの範囲がベンヤミンで、「超現実主義」や「プルーストのイメージ」なども参照しながら、これもまた7ページくらいのレポートにまとめました。また、「複製技術時代の芸術について」「写真小史」の二つのテキストと共鳴する箇所があるということもあり、今でも読み返しています。

ベンヤミンは学部の頃から『一方通行路』など触れる機会が比較的多く、その延長線上で「芸社」の授業も受講しました。この授業ではほかに、アドルノやジンメルも読みました。この授業を受け持っていたイ・ジェジュン教授(J教授)は、Y教授やミスターYとはまた違って、夏に読書会を開くなど、熱い教授でした(この勉強会については、次回【後編】でまた紹介します。)。

⑦『解放された観客』(ジャック・ランシエール、ヤン・チャンニョル訳、2016、現実文化)

【前編】で学部のころについてちらっと話しましたが、大学の芸術学科では美学のカテゴリーで本に触れることが多かったです。が、教授がドイツ哲学寄り(博論がたしかクラカウアー、、だったはず)だったこともあり、フランス語圏の哲学は、あまり触れられなかった現状でした。フーコーやドゥルーズ、ヴィリリオは、別の授業で少し触れて、後は自分で読んでね、、という感じでした。

ということもあって、大学院ではフランス語圏の哲学や美学にもう少し触れたいな、と思っていました。授業のカリキュラムを事前にチェックしながら、「メフィ2」にランシエールの文字を発見。

作品を見る、言い換えれば向き合う立場に立って批評活動をしたいと思っていることもあり、言葉とイメージ(像や画像、表現など)が何をあらわし、受け手に伝えるのか、読む上でとても共感できるところが多くありました。が、まずバルトーをある程度理解していないと厳しいということもあり、未だに格闘中です(とほほ)。

ちなみに表紙は、(文中にも上げられる)アルフレッド・ジャー(Alfredo Jaar)の作品「The Eyes of Gutete Emerita」(1994)です。

おわりに

本の紹介をしながら「ミスターYばっかりじゃん!」って思うかもしれませんが、私自身ミスターYの批評における態度や観点の影響を受けたので、しょうがありません。ミスターYの授業と修士生の同期で立ち上げた美術批評のコレクティブがなかったら、大学院に行った意味は8割方なかったと言いきれるくらいです。

ここ数年を振り返っているだけで、人生の長さを感じてしまいます。これまでも長かったし、これからも長い、、いつ終わるのやら20代という感じです(そしていつ修論が書けるかも謎)。

【後編】では、授業以外で読んだ本について紹介します!乞うご期待!