**観照的報道写真:ノ・スンテクと《非常国家 II – 第4の壁》**
<<報道写真の多くは、その事件を一番よく伝えるものとして選ばれ、公開される。しかしそれらと異なり、写真作家ノ・スンテクの作品はそれらがデモの現場を写しているにも関わらず、どこか距離を置いて捉えられている。その写真は現実の告発や政治的表明のような直接的なメッセージ性ではなく、より多くのことを物語っている。>>
1.最大効果としての報道写真
報道写真は真実を伝えるためにと頻繁に言われるが、これは一方でその真実を好条件で伝えるに際し、微調整が行われる。先ずはじめにカメラマンによってのフィルタリングが行われる。角度、光の具合、焦点を合わすことで、真実の置かれている現場の状態を抽出し、ひとつのものに目を向けては対象を捉える。ある人は子供が泣いている場面を撮り、ある人は上空からデモの現場を捉える。このような物理的位置からはじめ、カメラマンにとっての「絵になる構造」は、その場面全体を「フレーミング」という一定の境界線に限定することになる。よって、真実の場面は、凝縮されるかたちでフレームの中に収められる。そして二つ目の過程では、言論やテレビ局といった、いわば公開する側のフィルタリングである。その事件を伝えるのに最も適した写真を選ぶことで、言葉による状況の描写以上に―「百聞は一見にしかず」という言葉は、視覚情報の共有が根強い今の時代、最も力を発揮しているだろう―視覚的に真実を伝えることで、現場感をもっとも強力に伝えられる。よって、ピントが合わない写真や(事件への)説得力の無い写真は、新聞にも載らなければ、テレビにも流されない。(もっとも、今日においてはスマートフォンの拡散によって、民間人の撮影したぶれた写真も最速で「リアルタイムな情報」として共有されていることも忘れてはならないが。)
2.多くのことを物語る:ノ・スンテクの写真作品
「一枚の写真が多くのことを物語る」。この表現は「その深さを語る」と表現するほうが適切ではないか。何故なら、多くのことを語るという言葉は、その両義性が写真に見て取れてこそ、その表現にもっともマッチしているからだろう。船舶事故の遺族達が悲しむ姿は、悲しみと怒り、そして明るみになった事件の真相といった多くのことを伝えるだろう。しかし、これらは同一線上で結ぶことが出来る。事件、それによる悲しみ、明るみになった事件の真実、それに対する怒り、そして紡いだ口は何も表現できない心境を表している。その写真に明るさや茶化した態度は全く見受けられない。よって、それは写真というものを一つの点と考えた時に、その下に広がる深さである。
しかし写真を前にして、その深さを汲み取ることが難しい場合が、ノ・スンテク(NOH Suntag, 노순택)の作品だろう。ソウルのアート・ソンジェ・センター(아트선재센터)で今年行われた展示《第4の壁 – 非常国家 II》は彼が単なるフォト・ジャーナリズムに含まれないという点でとても興味深い展示であった。この写真作家は韓国のへ揺れ動く政治・社会的問題に直面し、彼の作品を見るとそれらを捉えているということが分かる。前大統領のポスター、デモの現場、ゴミの数々が収められたフレームは、今日の韓国が抱える様々な問題を写している。しかし、どこか審美的な要素が垣間見えるのも事実だ。大小様々なサイズで展示されたその様子は、ヴォルフガング・ティルマンス(Wolfgang Tillmans)の展示とどこか似ている。ノ・スンテクの写真そのひとつひとつを見てゆくと、それがデモの現場を捉えているにも関わらず、怒りの感情や悲しみをなかなか覚えられない。
ティルマンスの作品を連想できるもう一つの理由として、今回の展示の数枚はどこか抽象画のようなものを含んでいるからだ。バーネット・ニューマンのそれを思い起こすような写真は、実際デモの現場で撮影された、デモ参加者を追い払うための水飛沫である。横に並べられた同じシリーズの写真を見ると、まるで宇宙空間を写したかのようにみえるが、実際は現実社会というもっと近くの存在である。ノ・スンテクの作品を抽象的と表現することは、「抽象化」というニュアンスにより近いものと私は考える。そこに現実・現場の姿があるものの、それを直接的に捉え伝えることはしない。悲しむ人の顔をクローズアップするわけでもなければ、観客達も悲嘆に暮れるわけではない。それらは「ぼかされ」、そして「美化され」た表現として現れる。この点で彼の作品は一般的な報道写真とは性格を異にしている。
3.写真への没入と観照的写真
その表現によって彼の作品は、それ自体だけでなくその鑑賞者までも中立的な立場で留めることになる。それは感情を瞬時に呼び起こしはさせない。それは9.11テロが起こったとき、フォト・ジャーナリストのリチャード・ドリュー(Richard Drew)の撮影した〈ザ・フォーリング・マン(The Falling Man)〉と同じ性格とみることができる。ここで両者の写真では、それが現実を写してはいるものの、どちらも現実の深刻さを抽象化し、いわば美的表現で伝えている。没入ではなく、客観的に捉え現実へ目を向けさせる点では、ベルトルト・ブレヒト(Bertolt Brecht)の「叙事的演劇」を連想することも出来るだろう。しかし、彼が劇を通して現実世界へと目を向けるよう観客の没入を拒んだのに対して、ノ・スンテクの写真ではその没入の否定を美的表現へと昇華させている。
今日、報道写真を中心に経験する没入は、本来の写真が持つ客観性を極小化しているのではないか。ロバート・キャパ(Robert Capa)の撮影した、銃に撃たれる兵士を捉えた写真は、虚構か真実かの狭間で揺れた。そしてノ・スンテクの写真で揺らぐその狭間は、現実へと戻ってくることになる。ジャーナリズムが求める激しさや劇的瞬間を否定しながら、観客に一方的な感情を奮い立たせる写真ではないものとして。その作品はカメラという眼で国家権力や社会的権力をテーマにし、また自身の審美眼でジャーナリズムの求める過激さにも冷淡であった。
(editor K4ø)
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