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【REVIEW】山と平地は続いている:荒木悠・ダニエル・ジャコビー<Mountain Plain Mountain>(2018)

5月3日~12日の間、韓国の全州で開かれている第19回全州国際映画祭で、映像作家の荒木悠とダニエル・ジャコビー(Daniel Jacoby)の共同作品<Mountain Plain Mountain>(2018)がExpanded Cinemaの短編部門で紹介された。今回は訪問できなかったが、今年の第10回恵比寿映像祭で見た記憶をもとに、この作品について触れてみようと思う。

カメラはありのままを映す点―記憶に残るのは恋人の姿だけかもしれないが、記録されるのはその周辺部のどうでもいいようなものものまでも―と、人間の捉えることの出来ない―エドワード・マイブリッジ(Eadweard Muybridge)が連続写真で示したような―瞬間の姿という細部まで確認できる点で、はるかに人間の眼より自然なものとして映されると考えることができる。しかし、そうとも言い切れないのが、その対象へ極度に近づいた時や、角度を演出に反映させたときに表れる、抽象化されたケースである。エドワード・ウェストン(Edward Weston)の写真において、一般的に思い浮かぶイメージとは異なる姿として対象が表れる。彼の作品で抽象化は、些細なものに不思議と威厳を持たせる効果として表れる。その時表れる価値の高揚は、その対象を失うこともせずに、異なる形で見せることによって得られる力と言える。

抽象化というキーワードで考えた時、映像作家の荒木悠とダニエル・ジャコビーが共同制作を行った<Mountain Plain Mountain>(2018)もまたそうである。北海道帯広にある「ばんえい競馬」をモチーフに制作されたこの映像作品は、手綱使いを説明するシーンや、競技場で双眼鏡越しにのぞく人々、そして映像を確認して順位を把握する裏舞台―恵比寿映像祭でこの作品が紹介された際、「透かしみる 2 ――舞台裏」というタイトルがプログラムについたように―が映されている。これらは共通して、ばんえい競馬を成す要素として捉えることができる。しかし、ここで肝心なのはその要素の集合体として表れた映像を観て、その「競馬」という言語的・視覚的イメージに「完全なまま」結びつくことが難しいという点である。ここで映されるそれぞれの要素は、(ばんえい)競馬と関係があり、それぞれ実際に現地で撮影された映像がメインである。しかし、それらの映像は競馬の喧騒の中に静けさを見出し、そして反対に、忙しく動くメーターや祭太郎さんの「カラテ」や「パーリーピーポー」という早い口調に、競技場の様子を感じることが出来る。つまり、競馬のイメージをその裏舞台から浮き彫りにしていると言える。

<Mountain Plain Mountain>で行われている抽象化は、単に競馬というテーマが秘める躍動感を鈍く抑えつけるだけでなく、それを裏舞台から抽出して躍動感へと結び付けている。結果的にここで抽象化は、崇高なイメージへと昇華されたウェストンの写真とは反対の可能性、つまり躍動感をフラットにする可能性をも提示してくれる。この点で、祭太郎さんの放つ言葉の速いテンポと、最後のシーンで室長が馬の名前を淡々と並べる姿(写真)は、両者共に抽象化における価値のアップダウンをも見せているといえる。そういった意味で、タイトルの<Mountain Plain Mountain>は、モチーフ、そしてより広く捉えた時に、作品(内)における「強度」を表しているようにも思われる。ばんえい競馬のコースを見てつけたこのタイトルにおいて、山(Mountain)は平地(Plain)と極を成しつつも、そのふたつが延長線上に置かれていることを示している。取り上げられる様々なシーンは、競馬のイメージや概念、またはより現実的に競馬を組み立てている裏舞台として映し出される。しかしそれにも拘らず、それらのシーンは(先に述べたような)「競馬」を完璧に映し出してはいない。騎手の乗る馬のイメージが時折登場するものの、それ以外の要素は競馬を成す要素ではあっても、競馬を代表する要素として表れない。そこでは、馬券の舞い散るスペクタクルとしての競馬が、フラットに描かれ、また逆に、一般では目に届かない管理室などの描写から、競馬を見るときと同じような興奮が感じられる。このように、ある視覚的・言語的イメージの備えていた力は、山から平らに、そしてその逆である平らから山へと強度が変わる様子として、映像作品に両方の形で表れている。

紺野優希

*写真提供:전주국제영화제

全州国際映画祭(Jeonju International Film Festival, JIFF):http://eng.jiff.or.kr/