グループ展

量産型ユートピア:交流展というフォーマットについて 《50/50》

量産型ユートピア:交流展というフォーマットについて

Korea-Japan Interchange Exhibition《50/50》(2019年10月24日(木)~11月24日(日))

 

紺野優希

まず、今回のレビューで取り上げる展示だけに限らず、「交流展」というフォーマット、ならびにその難しさを知る必要がある。交流展において、交流の主体は誰・何で、展示の対象は何なのか。「(主体と対象の)捉え方次第で」いくらでも変わる交流展は、定義しづらいだけでなく、言い方によってあれもこれも交流展となってしまう危険性を孕んでいる――観客と作品の交流(「インタラクティブ」で「アトラクション的な」作品)、国家同士の交流(対立を越えて/無視して)、アーティストたちの作品を並べて交わす盃(飲み会)・・・。

 

まずはじめに、交流展が捉えるべき重要なポイントは、まさに交流と展示を接続することにある。しかしながら、「交流すること」と「展示すること」を、接続させることは容易ではない。というのも、展示を念頭に置く場合、交流そのものではなく当時の証拠や結果を資料として展示する必要があるからだ。この場合、過去の交流を歴史化し、開示することに目的が位置づけられる。ソウルの国立民俗博物館で開催された《昆布とミヨク*1―潮香るくらしの日韓比較文化誌》*2は交流をテーマとして展示を行っている例と言えよう。逆に、交流に重きを置く場合、展示をすることがパフォーマンス性やイベント性を伴う。展示はそこで、あくまで交流の「場」として機能するだろう。前者の場合は展示対象として交流を捉え、後者の場合は交流主体に展示することの意味を与えていると考えられる。

美術展における交流展は、両者の関係に、芸術作品という媒体が加わったものと言える。芸術作品と交流と展示、この三者の関係は、以下に述べるとおり3つの様式に分類できるだろう。

①交流をテーマにした作品を展示すること
②作品を展示し、交流を展示のテーマとして扱うこと
③作品を見せる際に交流が伴うもの

この内②と③で念頭に置かれているのは、過去の交流にアプローチすることではなく、むしろ「今この場所」で交流することを追求することである。①の場合、過去の交流(史)を用いることもあれば、より現在に近い交流を参照して作品のテーマとすることもできる。一方②と③では、作品を披露・展示することが今現在の交流(をすること)として位置づけられる。例えば《アーティスト・ファイル2015 隣の部屋――日本と韓国の作家たち》*3は日韓のアーティストを日本と韓国の美術館でそれぞれ紹介する交流展として開催された(②)。また、かつてアーティストのリクリット・ティラバーニャは会場でパッタイを作り、観客に振舞った行為を作品とした(③)*4。この場合、交流と展示は作品を介して、接続不可能だった関係を同時に解消している。

交流展のジレンマ、つまり「交流すること」と「展示すること」が両者同時に達成できないことは、このようにして作品を介することで、いとも簡単に達成されてしまっている。しかし実は、この達成こそが美術における交流展の難しさを覆い隠してしまっているのではないだろうか。今日において、キュレーター側のアプローチ(これはアーティストがキュレーターの立場になって行うことにも当てはまる)と言えるものは、一種の交流事業のように交流展を量産している。地域と芸術の交流からはじまり(地域芸術祭)、国家間の交流(《想像の境界線(Imagined Borders)》2018、光州、韓国)など、これらのアプローチは、芸術(作品)を媒体として展示に(道具と手段として)用い、交流として成り立たせている。しかし、このような容易なアプローチの裏側には、未だ尚抱えている社会・歴史的な溝は勿論、交流展のジレンマへの問いかけが少なく、かつ(展示の会期が永続的でないのと同様に)一時的である。「今この場所」で行われる交流は、美術展を「どこでもない場所」として築いてしまっている。

今日における交流は(ニコラ・ブリオーが『関係性の美学』で当時見出そうとした)社会的な隙間(interstice social)ではなく、美術という枠組みの中で制度的に行われている。かつて行われたティラバーニャとリアム・ギリックのプロジェクト《ユートピア・ステーション》*6は、事業のもと量産可能になったといえるだろう。ユートピアのような場所という設定は、過去も社会的文脈も気にしないキュレーターシップの欠如として、美術展に量産されている。これについては、韓国ソウルで行われた《50/50》(リレーパフォーマンス:2019年10月24日(木)〜25日(金)/展示:2019年10月25日(金)~11月24日(日))*7もその例に漏れない。2000年代のアートシーンを率いたスペース「Alternative Loop」主催の今回の展示は、14年前の2005年に開催された《40/40》の延長線上で企画された。タイトルは、一種の世代論とも言える年――40と50は互いのアーティストの年齢層――を示しながらも、非常に軽薄な態度で展示を行っている。そこには世代を作風などで特徴付ける試みもなく、入念な(文脈や時事性・社会性を考慮した)キュレーションが加わって、作品をチョイスし、展示を構成しているわけでもない。《50/50》で明らかなのは、交流を掲げて展示(すること)と結びつけることに失敗しているだけでなく、はじめから困難とも言える、先に述べた交流展のジレンマを、パフォーマンス自体を映像や写真で記録することで、覆い隠してしまっていることだ。

会場には、二日間(10月24・25日)にわたって行われたパフォーマンスの記録映像や写真、小道具が並べられている。すでに会場はもぬけの殻であって、観客はそこに交流の営みを痕跡として確認するほかない。韓国のアーティストと日本のアーティストがそこで交流をしたのかしていないのか、作品が交流と関係しているのかしていないのか、展示が交流と関係しているのかしていないのかは、作品だけを見て確認することが難しい。そもそも、アーティストそれぞれの作品として独立している作品は、交流における主体と対象の考え方も異なっている。作品に交流が伴うパフォーマンス(チョン・ジュンホ、ギムホンソック)*8もあれば、交流することについて触れるパフォーマンス(会田誠、ヂョン・ヨンドゥ)もある一方で、作品に交流が直接的に反映されない作品(パルコキノシタ)もある。このようなバラツキは、交流展に限らず、グループ展でも度々あることで、決して悪いことではない。様々な観点でアプローチができて、観客も一律に受け取る必要がないからだ。しかしそのバラツキは、会場に並べられた写真によって、アーティスト同士が「交流できたハッピーエンド」として語られてしまっている。それは、今回の展示と作品の説明にも度々登場する「即興性」にも、閉じた可能性として現れている。変数を加えるものではなく、むしろ対応可能で暗黙の内に統制されたシナリオとして機能している。そこにはパフォーマンスを中断させる圧力もなければ、理解に苦しんだ挙句、対話や乱闘が起きるわけでもない。アーティスト同士も作品同士も軋轢を生まない・視覚化されないまま、展示は「今ここ」という場所なきユートピアを描いてしまっている。

多くの来場者が(パフォーマンスが終わった後の)会場に行って面食らう理由は、そこが廃墟のようなスペースだからという理由もそうだが、交流展という言葉が示すもの、つまり交流と展示を悪い形で繋ぎとめてしまっているからである。今回の展示は、作品を展示することで交流を(テーマとして)扱うこと(②)や、作品を見せる際に交流が伴うもの(③)としても、機能していない。というのも、アーティストによって、作品は交流のための手段として扱われていないし、作品を展示することで交流の意味を問いただしたりもしていない。結果的に今回の展示では、交流そのものがパフォーマンスのように扱われてしまっている。「そこには(かつて)交流があった」ということを印付けるように、会場にはパフォーマンスをした参加アーティストたちの写真が飾られている。展示会場には「すでに終わったもの」として、いや、はじめからなかったものとして、表面上掲げられた交流の記録が残されている。

ここまで読んで、「つべこべ言わずに交流しとけ」と思う人も多いはずである。その通りである。交流をすればいい。しかし、それが展示と繋げられ、作品を介して扱われるようになると、事態はややこしくなる。交流をはじめとして連帯、賛同、参加することが、慈善事業のようにアートシーンを振り回している現状で、現実に触れたり、かき乱せてもいないまま、一種の安息所に落ち着いてしまう恐れがある。*9 それは今回の展示にも言い得ることだ。今回の企画《50/50》は、何も越えることなく、何も起こる事のないまま、美術展やプロジェクトの内部で無難に収束/終息させてしまう展示だった。その結果、いや原因として、キュレーターシップの欠如、目的が削ぎ落とされた交流、そして「基金の国際的な交流」*10として現れてしまった。ソウルに行くのに片道1万5000円程度、グーグル翻訳の性能が格段と良くなり、二ヶ国語で応答が可能な人材も増えている。それにも拘らず、ナイーブな交流(ならぬ交流)が蔓延るのであれば、それをお金の往来以外になんと言えばいいのだろうか。交流展のジレンマという立てるべき仮定を踏まえない限り、悪いパフォーマンスとして、交流展はユートピアを量産し続けるだろう。

 

*1:ミヨクは韓国語でわかめのことを指す。

*2:本展では、二つの海産物の普及だけに限らず、漁業制度や食生活まで論じながら日本と韓国の文化を比較研究している。http://www.nfm.go.kr/user/bbs/japanese/21/578/bbsDataView/21021.do?page=1&column=&search=&searchSDate=&searchEDate=&bbsDataCategory

*3:https://www.nact.jp/exhibition_special/2015/af2015/ 紹介されたアーティストは、イ・ウォノ、イ・ソンミ、イ・ヘイン、イム・フンスン、キ・スルギ、ヤン・ジョンウク、小林耕平、手塚愛子、冨井大裕、南川史門、百瀬文、横溝静の計12名。国立新美術館(2015年7月29日~10月12日)で開催された後、韓国国立現代美術館(果川館)(2015年11月10日~2016年2月14日)で開催された。

*4:Free, 1990, Paula Allen Gallery, New York

*5:https://www.gwangjubiennale.org/en/archive/past/90.do

*6:Utopia Stationは、2003年に開催された第50回ベニス・ビエンナーレで公開されたプロジェクト。(…) Utopia Station in Venice (…) will bring together the work of many different artists and architects who will build small structures, models and walls.
http://www.universes-in-universe.de/car/venezia/bien50/utopia/e-press.htm

*7:http://altspaceloop.com/exhibitions/50-50

*8:韓国名は日本でこれまでに紹介されている表記法に従った。しかし、アルファベット表記から日本語に直した書き方だと、発音や表記法が韓国語と異なってしまうため、参考までに次のように訂正したい。チョン・ジュンホ→ジョン・ジュノ、ギムホンソック→キム・ホンソク、ヂョン・ヨンドゥ→ジョン・ヨンドゥ。尚、この直し方はあくまで筆者の考えによるものです。

*9:この他にも、昨年開催された某国際美術展と関連して始められた、アーティスト主体のプロジェクトなどを思い出していただきたい。

*10:説明までにいうと、独立行政法人国際交流基金(The Japan Foundation)をもじった表現である。

**写真はすべて筆者撮影

Korea-Japan Interchange Exhibition《50/50》リレーパフォーマンス:2019年10月24日(木)〜25日(金)/展示:2019年10月25日(金)~11月24日(日)

 

※この内容は、「レビューとレポート第8号(2020年1月)」に寄稿したものです。