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「VS, x, ft., edit, &」▷今ここで、そしてどことも言えない、この場所で

VS, x, ft., edit, &

1. どことも言えない、その場所で

大切な人が傍に居てくれたら、どれだけ心強いだろう。しかし、大切な人が傍にいないとき、私たち人間は、その時の寂しさを何で埋めるのだろう?答えは周波数かもしれない。答えをそれとしたとき、質問の「埋める」という表現は、「何かにとって代わるもの」ではなく、「離れているものを繋げるもの」という意味合いになる。つまり、この場合、寂しさを紛らわすものではなく、その寂しさの原因となった距離感を、埋め合わせるという意味で、「周波数」という答えを出せる。ウィリアム・ギブソン(William Gibson)の詩、『3つの頭のための声(THE BELOVED (VOICES FOR THREE HEADS)』を読むと、「沈黙の周波数(THE FREQUENCY OF SILENCE)」という表現があるが、ここで平坦になってしまったものが沈黙ならば、活気はこの振動によって、距離を越えながらも伝えられるものと言える。この振動、それは今日では大切な人が傍に居る「体験」ではなく「経験」として、つまりシミュレーションというものが単なる虚構事実ではなくなり、距離を問わず現前させる手段となった。遠くの人と遠くの人、つまり離れている存在を繋ぎとめるのは、お互いの接続状態(connected)という、ひとつの結び目である。それははじめ、電話での会話に見られた現象だ。そこでは、実際の距離に関係なく、その情報伝達が瞬時に行われた。遠くの人は、互いに「電波や通信状態がよくなって」繋がった時に、「傍に居るように」繋がることができるようになった。この段階では、シミュレーションというものが介入していない。細かいことを言えば、電波で伝えていることにはなるが、声というものは(今日におけるシミュレーションがそうであるように)視覚よりも、距離に縛られることがさほどないからだ。遠くの方から、ましてや自分の視野に映らないところから、或る人が声をかける。廊下の向こう側から声をかけてコミュニケーションができるのに対し、視覚的にその存在を目の前に持ってくることは難しい。

距離がさほど遠くない限り、視覚的にその対象を確認する手段は、双眼鏡や望遠鏡で充分だった。しかし、これらはお互いがコミュニケーションをするというよりかは、一方が他方を見ているという、監視に近い。密林で、互いに敵を確認したところで、それは意思疎通を行っているわけではなく、互いの非可視性に基づくものであり、もしくはスポーツや天体観測、またはアイドル・コンサートのように、「見えても良い」という、その対象自らの露出感覚に基づくものである。この一方的とも言える観察は、コミュニケーションとは異なる「体験」に近い。それは(有名な歌詞にもあるように)「見えないものを見ようとした」気持ちの高まる状態である―一方は死のフィールドで、そして一方はコンサートやピッチという会場で。それでも後者には、スクリーンが広がっていて、これらをシミュレーションとも言うことができるだろう。これらはシミュレーションではあるが、シェリー・タークル(Sherry Turkle)が『接続された心(Life on the Screen)』で分析した「ゲーム上のロボット」とは異なる。両者はシミュレーションであるが、生命体に似せたものか、または生命体を表す手段なのかで違いがある。(だが、前者の場合はロボットにデータをインプットすることからはじまり、今日のボットやキャラのアカウントのように、「腹話術」の形をとっていることもあるので、大変ややこしくなっているので、ここでは割愛させていただく。)生命体を表す手段、それは何も無いところから人に似せることとは異なり、既に存在している人を、今目の前に持ってくる手段としてのシミュレーションのことを指す。

それは今日、SkypeやFaceTimeなどによって、そして一方ではポータブルでモバイルな通信機器の拡散によって、多くの人が経験するようになった。通話、映像通話、チャット、これらのコミュニケーション・ツールは、その人の肌に触れることが出来なくとも、肌に触れているような感覚、つまり、一般的なコミュニケーションにおいて「基本的に求められる範囲内で」、触覚以外の感覚を充たしてくれる。そこには触れることの出来ない、現代的なタッチが感じ取れる。(よくよく考えれば、ボタンやフィルムをしっかり貼ったスクリーンにはよく触れても、画面越しの相手には触れることの少なくなっている。その人間像を悲しい姿と私は思わないが、というのも一般的なコミュニケーションにおいても、触れることはごく限られているからである。)それらを道具として用いることで、人々は寂しさを埋め合わせることが出来た。一人で居たとしても、画面の先には多くの人が温かく迎えてくれた。まるで家にいるかのような温かさが感じ取れるネット上の多くのスペースは、しかし一般的な家、そのイメージとは異なり、多くの人が行ったり来たりする空間である。その点で、映画『電車男』の最後のシーンは印象的だ。ホームからそれまでの人が居なくなる様子、それはそのホームというものが「(無数の内の)一つの」パイプラインであることを表しているからだ。現代的なタッチ、それはネット環境とインターフェイスを媒介とし、遠くの人とコミュニケーションを「今ここで、どことも言えない場所で(Now/Here, No/Where)」とるようになったことと言えよう。

 

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