EDM

「VS, x, ft., edit, &」▷Intro

VS, x, ft., edit, &

▷Intro

 

「VS, x, ft., edit, &」はEDMにまつわる様々な筆者の考えを「まとめきれてないかたち」で紐解こうとした短編記事の連続になる。記事「Intro」では本題に突入する前の、文字通り導入部である。だがしかし、これは導入部としてだけでなく、本題としても機能するだろう。この記事は最大限EDMの特徴を反映させて構成された。この記事だけを繰り替えし(リピートして)読んでもよし、他の記事と段落を入れ替えて(シャッフル)もよしである。

Merk & Kremont vs. Gianluca Motta, UPNDOWN, 2015

 

 1.音楽と伝達形式:空間から記録の所有へ

 

 一箇所でわいわいと聞いていた音楽、それは伝統的にはクラシック音楽とオーケストラ会場との固いつながりであった。しかし、複製技術によって、音楽も所有形態をとるようになった。つまり、記録(物)として音声が残されるようになったのである。これは初期にレコードの形で表れた。フリードリヒ・キットラー(Friedrich A. Kittler)の著作『グラモフォン・フィルム・タイプライター』ではラカンの精神分析と比べられているが、ここでは所有からの情報共有の面に目を向けたいと思う。かつて、情報は地域の―それこそ具体的な―掲示板であった。一箇所で多くの眼に留まるそれは、場所を切り離す形が「情報」というものに限られ、口頭で伝えられた。しかし、この場所は複製技術によって多くの人の手元にやってくることなる。ここでマーシャル・マクルーハン(Marshall McLuhan)が述べたように、印刷技術と聖書の普及の話とも関連付けられる。物価された情報としての所有物は、唯一であるその場所の限定性―ヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin)がアウラと分析した―を克服することが出来るようになった。

 

2.防御と専有:蓄音機からイヤフォンへ

 

 技術の革新は、多くの人へ影響を与える。音楽も記録物として所有することで、オーケストラ会場からエスケープできたのである。しかし、ここでレコードの話に戻ってみると、それはオーケストラ会場との類似性を多く見てとることができる。というのも、蓄音機での情報共有は、その「形状どおり」オープンになっている。つまり、一度に多くの人が聞くことが出来るのである。ここで音楽(またはその記録物)の独占は、あくまでレコードという物質の所有、及び管理にしか当てはまらない。この点から考えた時、音楽の共有方法に、一番重要な影響を与えた発明はイヤフォンではないかと私は考える。個々人のそれぞれの耳にしか向けられていないイヤフォンは、記録物としてではなく、時間芸術としてある音楽の独占形態である。時間性を伴う音楽は、レコードやカセット・テープと言った物質的な共有、そして蓄音機をとおした大勢への音楽の伝達に留まるどころか、イヤフォンの発明によって「流れる」作品への独占として機能させ、新たな所有形態をとることになった。それは「何を所有できるか」ではなく、「何によって・何を用いてその所有物とだけ向き合わせてくれるか」への移り変わりである。

 この発明は今日、多くのユビキタス製品によって多大な相乗効果を得ている。その代表的な例がスマートフォンであろう。手元をいじくり回し、横の人とは違う音楽を違うタイミングで聴くことが出来るようになった。これはかのゲオルク・ジンメル(Georg Simmel)も聴覚がこれほどまでセルフ・コントロールに至るとは思ってもいなかったことだろう。「感覚の社会学」で述べているように、ジンメルは視覚と聴覚を分析しながら連帯意識を聴覚に見出した。視線は避けることが出来るが、聴覚は避けることの出来ない講堂での説法。しかし、聴覚も今日避けることが出来るようになった。多くの場合、困っている人はイヤフォンをしていない人に話をかけることになるように。そしてイヤフォンの強みは遮断だけではなく、自分が音楽(または電話による会話)を聴いている、つまり単なる防衛だけではないという攻守における両面性である。まさに防ぐことが、いちばんの攻撃ともなった。私は私の音楽を聴き、とても小さな、それでもかつ強靭な壁を作り上げた。

Samuel Barber, Adagio for Strings, 1936

Tiësto, Adagio for Strings, 2005

 

3.横説竪説:上と下、横から横へ。


 この企画は、私個人の狂的趣味であるEDMについて、そして広げては鑑賞の仕方やデータとして共有されるなど、今日の音楽に訪れた変化を捉え、論理を展開する試みである。しかし、ここまで読んで、多くの方が疑問に思うだろう。「これはEDMの話しじゃないのか?」。質問に質問で答えてみよう。それなら、EDMとは何なのか?言語的な意味を分析することは―少なくとも後者よりは―簡単だ。では、EDMの特徴は何なのか?それをこの企画で照らし合わせていくわけだが、敢えて言うのであれば、ありとあらゆる音楽がとあるプロデューサー(プロアマを問わず)の手でいくらでも変貌を遂げるという潜在性・潜在態である。サミュエル・バーバー(Samuel Barber)のアダージョはTiëstoによって編曲―remix―されクラブでもかけられる。また、かつてのポップがアレンジされる―そこに私が生まれも存在もしなかった時代、その音楽に郷愁のようななにかを抱くこともある―。EDMを聞いて思うことはこれだけではない。それは今回論じたような、音楽の受容や共有の仕方とも関わっているのかもしれない。この企画の構成もEDMという曲にまつわる筆者の考えを縦横無尽に書けたらと考えている。縦も横も、上も下も自由に行き来できる、そしてそれ故に「横説竪説」な語り場として・・・。

 

(editor K4ø)