日常

**阿部共実 〈ちーちゃんは ちょっと足りない〉**

(漫画本ちーちゃん)

**阿部共実 〈ちーちゃんは ちょっと足りない〉**

 

 2017年に〈月曜日の友達〉の連載がはじまり、活動休止(?)前の作品にも注目が注がれるようになった。pixivで公開もされた〈大好きは虫がタダシくんの〉をはじめ、独特な作風で知られる阿部共実先生

 その謎に満ちたストーリーは、多くの読者を二度も三度も1ページ目のスタート地点に呼び戻したに違いない。今回は作者が2014年に第18回文化庁メディア芸術祭マンガ部門新人賞を受賞した〈ちーちゃんは ちょっと足りない〉を分析する。

 

1.長編漫画、〈ちーちゃんは ちょっと足りない〉

〈空が灰色だから〉のインパクトに比べたら、〈ちーちゃんは ちょっと足りない〉(以下〈ちーちゃん〉)は劣ってしまうのかもしれない。だからといって後者が単純に前者より劣った作品であるかといわれれば、全くもってそういうことはない。これは着眼点の違いだろう。〈空が灰色だから〉や〈死にたくなるしょうもない日々が死にたくなるくらいしょうもなくて死ぬほど死にたくない日々〉(以下〈死に日々〉)は短編ショートであるのに対し、〈ちーちゃん〉は長編という構成である。〈空が灰色だから〉と〈死に日々〉ではその短さによって、インパクトの与え方が―作品にもよるが―ダイレクトに伝わる反面、〈ちーちゃん〉では話の中にアップダウンを生み出す形で衝撃が伝えられる。一般的な小説の構成における四段階目、つまり「危機」の段階でその衝撃は、ストーリーとしての衝撃だけでなく、描写におけるものとして読者に視覚的なそれを与える。作中に現れる筆遣いの制御が利かない表現がそれである。しかし今回の分析では、よりストーリーへ目を向けることにしたい。

2.揺れ動く時期、思春期

 〈ちーちゃん〉を読んだ人は、この話の結末をどう捉えるだろうか?読んでいない方のために言うと、この作品の主な登場人物は、主人公でもあるちーちゃんこと南山千恵と小林ナツ、そして旭である。おおまかに話すと、この3人の人間関係にスポットライトを当てた作品、それが〈ちーちゃん〉である。この作品の結末部分を見ると、ちーちゃんとナツが仲良く駐車場の前の坂道を歩いているシーンで終わる。この画面構成は実際、第1話の最後のシーンと同じであることが分かる。ここでは2人ではなく3人の姿で睦まじげに話が締めくくられている。このシーンでは前述の2人に加えて、旭が加わっているころの下校シーンで描かれている。この2つの画面構成は時間の経過と変化を表している。ストーリーというものそのものが時間や展開を含み、前のシーンと最後のシーンというページ数の前後の関係は、そのストーリーの流れを視覚的な変化として読みとることができる。比べてみると、最後のシーンには人数が減り、空きの駐車場には車が入るように描かれている。ここではストーリー上の時の経過が読みとれる。

3.時の経過と私の変化

 この作品ではこのような時間の経過や変化というものが主なテーマではないかと私は考える。作品に登場する3人の人物は思春期を迎えた中学生2年生で、それぞれ微視的ではあるが成長過程に置かれている。旭は恋をし、新しい友達―この友達はなつが好きになれないままの友達である藤岡である―と付き合うようになり、ちーちゃんは一人でショーを観に(アニメのショーではあるが)出かけるようになる。私が読む以上、この話の中でそういった成長過程を拒むように過ごす人物が一人いる。それがナツだ。

 この作品のストーリーをそれぞれ3つに区切る―3人仲良く過ごしていたとき(第1・2・3・4話)、ちーちゃんの「純粋無垢な」窃盗事件(第5・6・7話)、事件後3人で付き合えなくなったとき(第8話)―とすると、3つ目のパートでナツは次のように言う。「やっぱり私にはちーちゃんがいないとダメだ」(p.207)。この言葉はちーちゃんが一人でショーを観にいっていることを知らないちーちゃんの姉(南山志恵)からの電話を受けて、ナツが一人ちーちゃんを探しているシーンで言う一言である。ちーちゃんを探す過程で、ナツは自分を省みながら独白を続ける。「私は変化することが怖くて/衝突することが怖くて/消失することが怖くて」(p.211)と、自身の気持ちを変化を拒む人間像として捉えている。次頁でも「みんな変わっていくよ/私は変われないよ/置いていかないでよ/ずっと一緒にいようよ/ずっとずっとずっと」(p.212)とその変わりたいという思いが自身によって拒まれている。

4.変化を望む私と変化を拒む私

 そうして彷徨っている間、それまで仲のよかったちーちゃんへの恋しさが高まり、小さい声でちーちゃんとナツは呼んでみる。するとちーちゃんがナツのもとへ現れるのだ。ナツは一安心、そして先ほど述べた駐車場を前にした最後のシーンに描かれる二人の姿は、読者の眼にはとても微笑ましく映ることだろう。傍から見たとき、それはハッピーエンドである。しかし私はこの解釈に異議を投げかけたい。

 私の見解では、この話はナツが変化を拒み、最期まで「置いてかれている」のではないか。ちーちゃんを見つけてからも、なつにはそのような変化への度胸や思い切りのよさが表れない。ちーちゃんを見つけたとき―実際にはちーちゃんが「ナツ」を見つけたとも言える―、ナツは喜ぶものの、そのはち切れんばかりの気持ちをちーちゃんに表現できないでいる。(ナツという名前に括弧をつけたのは、その変化しきれない存在を強調したいからである。)216頁を目にした時、読者の多くは再会の抱擁を予想するだろう。しかし、その次の頁でナツはそれをしないまま、笑っている。ナツは抱擁をしようとするが、「思わずちーちゃんを抱きしめたくなっちゃったけど」「私がそんなことしたら気持ち悪いよね」と今までの自分の殻に引きこもっている。そして220頁と221頁のやりとりで、その変化を拒む姿勢が決定的に現れる。それはちーちゃんを介した、ナツの不変への自己肯定と私は考える。なつはちーちゃんに次のように聞く。「私たち/ずっと友達だよね?」。次のコマでちーちゃんのはにかんだ表情が見えるが、ナツの質問への答えは次の頁に噴出しだけで表れる。「うん」と。221頁のその後と最期までの2人のやりとりを見れば、それは当たり前のようにちーちゃんの返事と考えられるだろう。しかし、ここでその返事は確実にちーちゃんのものとして表現されていない。いわば、ナツの自己投影による自己肯定とも考えることが出来る。

5.足りないのは誰?

 最期の解釈に関しては、それこそ私個人の判断である点は否めない。しかしながら、このような解釈へと導く阿部共実の表現方法は高く評価できるのではないか。ここでいま一度、作品のタイトルに戻ってみよう。〈ちーちゃんは ちょっと足りない〉、これは果たして誰が言っているのだろうか?読者の多くは話を読みながらちーちゃんが「足らない子」であることはよく把握できるだろう。しかしながらこの話で誰よりも葛藤を経験し、旭が新しい友達と遊びに行き、ちーちゃんが一人でショーを観に出かける中、心の中で変化を望みながらも作品の最後のほうの会話まで「自ら」変わることの出来ない人物、それがナツである。ちーちゃん自らはその「足らないところ」をショーを見に行くというところで変わろうとしている。そしてちーちゃんは変わったのだ。旭については言うこともない。事件の件で藤岡に謝り、最終的に仲良く街へ遊びに出かける点で、自らの行為が変化へと繋がった。私の考えではタイトルの〈ちーちゃんは ちょっと足りない〉は、ナツの目線で見ていた―そして尚も彼女がちーちゃんに与え続ける―ものではないか。それは、本当に足りないのは自分自身であるということに気付いてもなかなか変わることの出来ない、ナツ自身の姿であり、ちーちゃんという他者への投影ではないかと私は考える。

6.ハッピーエンド?

 空いていた駐車場にも車が止まっている。友達は一人でショーを見に行く。もう一人は新しい友達を見つけ街を歩く。最後の最後でもナツは窃盗までしたちーちゃんに思いを馳せる。そして永遠の約束を望む質問を投げかける。「ずっと友達だよね?」。ナツは話の中で変わることの出来ていない/出来なかった存在である。これはハッピーエンドではなく、ナツが変わらないまま話が終わることで、一種の虚しさを私に与えた。しかしその一方で話がまた進んだらナツも変わるのではないかという希望も抱けた。しかし、これは完結したひとつの「つくられたストーリー」であり、私たちの人生とは異なる。私たちの人生(と同じ)なら、3ヵ月後、駐車場の前の道にナツと違う友達が歩いていることも充分に考えられる。しかし、作品はここで終わってしまう。

 この話はちーちゃんの足らなさを描いたものではなく、足らなさを自ら克服できなかった、ナツという取り残された人物の物語である。

(editor K4ø)

 

その他の阿部共実さん関連記事はこちら!⬇︎

あわせて読みたい
**阿部共実 : 10時間**阿部共実 : 10時間 死にたくなるしょうもない日々が死にたくなるくらいしょうもなくて死ぬほど死にたくない日々 1 (...
あわせて読みたい
月曜日の友達
**阿部共実:月曜日の友達**阿部共実の新作〈月曜日の友達〉を、それまでの作品と比べながら5つのキーワードで分析。 〈月曜日の友達〉は、阿部共実のそれまでの作品...