**阿部共実 : 10時間**

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阿部共実 : 10時間

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死にたくなるしょうもない日々が死にたくなるくらいしょうもなくて死ぬほど死にたくない日々 1 (少年チャンピオンコミックス・タップ!)

<<阿部共実の作品に頻繁に登場するモチーフとして記憶や過去の話が挙げられる。今年の夏、新作『月曜日の友達』の単行本が発刊され、そこでも阿部共実は記憶や思い出について巧みな表現を用いている。〈10時間〉でも阿部共実は過去の記憶と空間を描写しているが、ここでは夢うつつで、現在と過去のクロスする表現を堪能することが出来る。>>

1.現在と過去、現実と夢

 現在から過去を思い返すとき、そこには一般的な時間性とは異なる形の時間性が伴う。過去と現実という隔てられたそれぞれ「空間」として、またはそれに付随する記憶を認識することによって、過去は感じとれる。過去を思い出すのは時間的に遡るかもしれないが、それはどちらかというと過去という空間、またはその状況への認識の仕方と言える。この空間は瞬時に行き来可能で、パソコンをしながら昔のことを思い返すとき、それは時間的に10年前に遡る、と言うかもしれないが、その時の状況や光景といった空間をどのように経験したか、ということで語られる。過去と現在の違いは時間的というより、空間的な認識の違いにより近いだろう。しかし阿部共実の作品〈10時間〉では、この空間的な認識の違いがで夢と現実の空間を曖昧に表現することで、判別がつかなくなっている。

2.夢うつつな

 〈死にたくなるしょうもない日々が死にたくなるくらいしょうもなくて死ぬほど死にたくない日々〉(以下〈死に日々〉)の第1巻に収録された〈10時間〉では、主人公である理子の心の葛藤が描かれる。それは大人と子供の中で揺れる、いわば未成熟な気持ちである。バイトに行きたくない主人公は家の中に入ると、姉の前で子供のような振る舞いをする。嫌なことだらけな毎日にもう疲れたと、泣きながら気持ちを表している。実はこのシーン、「夢の中」で主人公の「今の気持ち」が表現されているものだ。しかしここで現実から夢への移り変わり、または導入は、はっきりと描かれていない。寝そべるシーンも無ければ、夢の中の自分の姿と今現在の自分が違う姿で描かれてもいない。夢の中で描かれる幼い頃の姿と大人になって暮らす姿は、それぞれ時を異にしつつも区別ができない。それはお姉さんが制服を着ていて、母親が影のように黒一色と台詞だけで登場しているにも関わらず、夢への導入が確かでないまま読者が触れることで、過去の空間と現在の空間が混ざりながら、それぞれの区別がつきにくくなっている。ここでは(夢から覚めた)現実と夢、そして現在と過去の姿が区別されないまま描かれている。読者が夢だと確信を持つようになるのは、最後のページで主人公が「夢かよ」という台詞、布団から起き上がった描写、そして、実家にたまには帰るかという、家族のいない状況を理解してからである。夢うつつな状態から徐々に夢へ導かれるように、読者はこのストーリーを噛み締めることができる。どこからが現実の舞台なのか、どこからが夢の舞台なのか、読者ははっきりと判別できないままストーリーを読むことになる。

3.こんな小春日和の穏やかな日は

 この作品において夢と現実という別空間は、それぞれ過去と現在という別空間の認識と歩調を合わせている。加えてこの作品で興味深い点は、主人公は夢の中で幼い頃を回想しているにも関わらず、今の姿のまま描かれている。つまり、夢の中で一方的に過去を思い起こしているのではなく、主人公の現在の心境が打ち明けられる場になっている。このように彼女の夢の中で、現実と過去は表現上ひとつに抱えられていて、それは彼女の揺れ動く気持ちを両極端に停泊させようと試みる。つまり現実と夢、現在と過去はこの作品でひとくくりにされ、過去の郷愁へ一方的に流れ込むわけではなく、その狭間で揺れ動いている。これは1977年に〈秋桜〉でさだまさしが書いた歌詞をどこか連想させる。ここでは旅立つ私、つまり嫁ぐという大人への歩み、またその志と、その後ろ髪を引く気持ちが同時に存在する。2番の歌詞を読んでみると、私なりに生きてみますという志が歌われている。注目すべき点は、ここでは一見心配しないで、というように歌われているが、実際は小春日和というその一日に幼いままでいたいという気持ちが同時に歌われるところだろう。その次の歌詞を見ると、もう少しあなたの子供でいさせてくださいという一節がすぐに歌われている。つまりこの曲で、この両極端の気持ちは「同時に」歌われているのである。つまり前の文章を否定すること―「でも」や「しかし」という表現―で、後ろの文章がより一層強く伝えられることとは大きく違う。揺れ動く気持ちが小春日和という一日に凝縮されながら、そこで気持ちの揺れが両極端を行き来している。

4.こんな日々は?

 秋桜にはお嫁に行くという背景があるが、阿部共実の作品では都会にやって来たという背景があるという点、そして前進する気持ちをとどめる気持ちをしかし〈10時間〉では単に夢想のままで終わらない。夢の中で描かれて、それから覚めると同時に、現実に戻される。そこで夢を後悔するわけではなく、現実において実家に帰るという気持ちに拍車をかける。夢に描かれた現在の自分の気持ちと過去の記憶は、たがいに混ざりながらも主人公が夢から覚めた時に憂鬱にさせない。なぜか、ここで夢は現実でどうするかという、実践につなげることで決して幻想への没入で終わらせていない。夢から覚めて泣いているシーンで終わるわけではなく、戻された日常でどうするか、という(幻想からの)距離を保っている。ここで見て取れる主人公の態度は、事実読者にも与えられるとも言えるのではないか。読者はそこで過去の郷愁に浸りながら幕の閉じられる、いわば一種のドラマチックな結末ではなく、ストーリー内で現実に戻されることで、鑑賞者(に)もまた没入を避けさせている。この点では〈死に日々〉の第2巻に収録された〈8304〉の結末にも該当するといえる。過去への感情移入は、〈10時間〉と〈8304〉で現実に引き戻されることで時の移り変わりを感じさせる。それは同時に気持ちの移り変わりでもあり、ここでは成長とも見て取れる。

(editor K4ø)

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