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【REVIEW】オブジェにつきまとう幻影 (2):和田真由子《建物2》

左:<建物>(2018) / 右:<建物>(2017)左:<建物>(2018) / 右:<建物>(2017)

先日、児玉画廊|天王洲で和田真由子の展示《建物2》を見てきた。ここでタイトルに注目すると、「建物」とあるが、これは一体何のことを指しているのか?ここでは、形状としての建物と、アイデンティティとして存在する建物と二つに分けられる。前者の場合、それは一見建物のように見えるということに由来する。壁と天井と、建物を特徴付けるそれらしきものが見える。つまり、「建物」を表現の対象―言い換えればモチーフ―として捉えられたものと、認識出来る。これとは違い、後者の場合、作品は建物、つまり建てられて仕上がっているものとしての性格が強く表れている。この後者の特徴によって、2017年に行われた《建物》と今回の展示は、互いに異なるレイヤーに置かれていると言える。前者の場合は建物の形状、つまり視覚的表現に傾いていたのであれば、後者の場合、形状だけでなく、建物という単語の意味合いにおける「構築」が、より反映されている。

今回の展示で、作家は立体を平面に写し取り、それをパーツごとに切り取って、会場に立体として表している。そこでは、作品を支える台座もなければ、額縁も存在しない。(興味深いことに、くっつけていた部分が、目の前で壁から取れてしまった!)そこでは、その薄っぺらい板が巧妙に、そして不安定に支えられていることで作品になっている。先ほど述べた二つ目の意味に照らし合わせてみると、「建物」と題されたそれぞれの作品は、元の形が立方体のように見えても「建物」ということが出来る。それは、その構造物を面で分けて、それから展示会場で「組み立てられた―そして今でも支えている」ものだからだ。そういった点で、今回紹介された作品はその不安定さが絶妙と言える。それは、一般的なオブジェにおける安定した(stable)状態から、パーツ同士に安定を促しているからだ。オブジェを支えているのは台座でも、また絵画の場合における額縁でもなく、パーツそのものにかかっている。

<建物>(2017) (上から見たとき)<建物>(2017) (上から見たとき)

そしてまた、それらを構造物と言える理由として、内部に存在する空洞が確認できる点が挙げられる。一般的な彫刻もそうだが、ミニマリズムのオブジェが拒んだ内部への視線は、いくら組み合わせたものだとしても、その中の空洞を見せないことで、構造物といった人の手が加われた印象がすっかり薄れている。しかし、和田真由子の作品は、その内部が見えるほどに接合されていない、もしくは平面から空間へと移行したせいで接合が不可能なため、作品を単にオブジェと言い切ることが出来ない。作品に(文字通りに)見られる空洞は、周りの構造に支えられていることで、存在している。この空洞は、作者がベニヤ板という厚みのない素材を扱ったこと、そして、遠近法が架空のスペースを見出したように、平面をもとに空間へ組み立てられたことで、一層強調されている。

その立体がはじめ平面上に描かれ、次に(板という)平面として構成された事実によって、会場の作品は絵画的な性質をある程度兼ね備えている。平面の内側へと投げかけられた遠近法的視線は、空間に位置づけられることでパーツだけでなく、視線の破片化をもたらす。つまり、展示会場で立体として展示されるとき、平面に表現されたパーツは二次元上の視線を引き摺ったまま、空間に構成される。しかしそれだけでなく、先に述べた空洞が支持体によって支えられている点に注目すると、今回の作品が彫刻より絵画に近いことが明らかになる。キャンバスの平面という特性に遠近法というテクニックが空間を見出したように、ベニヤ板のパーツという平面は、空洞という空間を作り出している。キャンバスとテクニックがそうしたように、そこに存在する空洞は、支持体の力を借りて生まれたものである。そしてこの特徴は、平面の視線から生まれたという事実によって、その幻影(的演出)という絵画性を一層強調してくれるだろう。

紺野優希