まとめ

美術館の透明な壁、趣味家のショーウィンドウ

3. 石は口を開くことはない

Michi Laboratory (下道基行)〈新しい石器〉Michi Laboratory (下道基行)〈新しい石器〉

これら数々の作品、そして作品と言えないもの、そしてこの対立項が同等に扱われるショーケースの中で、ある一つだけが異質さを醸し出している。それは作家、下道基行―厳密に言えばMichi Laboratory―の〈新しい石器〉である。このものほどまでに、会場の雰囲気を美術館やホビーショップではなく、博物館のように感じさせるものはないだろう。というのも、石を見たとき、他の物とは異なり、それが価値を「剥奪されているようには見えない」からである。使われない筆箱やクリアファイルとは異なり、そこにはもとの用途が押し留められているわけではない。仮にこの石が、陳列棚に並べることでなんらかしらの価値を失っているのであれば、その石には何の価値があったのか?文鎮としてでもなく、石灯篭のようにオブジェとして庭にあったものでもないのだれば、そこで石を買うことで私たちは何を得るのだろうか?

それは、使用価値ともそうでない価値―ここでは観賞価値とする―も許す、可能性ではないか。これまで紹介した物たちは、既に用途がある程度定まっているものである。つまり、作品の場合は、果敢にアイロン台のような日用品に転換することが難しい。グッズやコレクションの場合はこの二つの価値を行ったり来たりする。CDのコレクターが観賞用と聴く用とを分けて買うのと同じように、クリアファイルを部屋に飾って眺めることも出来れば、カバンに入れてレポートを入れることもできる。この二つの可能性は極端な往来をするものの、その方向性は既に物が作られたときに決まっている。ここで、購入を決めた人はその両極端のどちらかの道も既に決まっている。選ばないという拒否権はないのだ。逆に言えば、そこに何か新しい価値を付け加えることが、ほとんど不可能な状態と言える。

これらと比べた時、下道基行の石は上述の二つの価値のどちらに行くか、所有したもののみがそれに価値を与えることが出来る。そこで石は終始ああしてほしい、とせがんだりしない。口の聞けない石に、人間が用途を与えるだけである。石を手にして、それを漬物石にすることもできれば、パワースポットのように拝むことも出来る。(そういった点で、枝でもなく葉っぱでもない、石であるポイントが見えてくる。)そこでは価値の再発掘ではなく、価値を「与える」、より能動的な人間の姿を見ることができる。よって、〈新しい石器〉を買う時、単なる石を得るのではなく、展示されることで封じ込められていた石の異なる使用価値をオープンにできるだけでなく、使用しない価値までもを与えられる。つまり、価値を与える権利を得ることが出来る。(もっとも、先に述べた「拝んだりする」行為は、純粋な鑑賞とはまた異なる、いわば鎮めてもらうための機能、つまり「祭儀的な価値」を備えている、と言えるが。)

 

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