依然として保存されたまま、生き残っているキャラクターについて:杉本憲相《何十年も前に死んだ。》

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旅をする人は、多くの場所を訪れては、多くの写真を撮る。自撮りや風景、食べ物の写真など、色々な写真を一番沢山撮るのは、旅をする時だろう。旅行にて、多くの人が使うスマホで写真を撮る場合はどうだろう。私たちはスマホのアプリとして搭載されたカメラのシャッターを押す前に、焦点をあわせたい箇所にタッチし、調整を行う。的確に焦点が定まってこそ、ようやくシャッターボタンに触れ、写真を撮る。それは、旅行において当たり前のことだ。そのように写真を撮りつつ歩き回った東京、その地で私が訪れた中央本線画廊では、焦点が合っていたり、または焦点を失った前景として旅行客を待ち構えていた。

中央本線画廊の位置は、グーグルマップに登録されておらず、ホームページに掲載されている住所へ直で行かなければいけなかった。その場所は繁華街から遠く離れ、動線を考えても微妙な位置ではあった。それでもサイトで見た作品のイメージが思い出され、「東京に来たことだし、行ってみよう」という一心でその場を訪れた。西荻窪駅から展示会場への道のりは、通行人が2人しかいない、もの寂しげな風景であった。中央本線画廊に着いたときは、窓がふさがれており、展示が開催中なのか確信が持てなかった。グーグルマップに登録されていないギャラリー、美術展が開催されるとは予想できない静かな町、また、展示を延長して行うというツイート、入り口のふさがれた小さな展示会場の外観、それらは、外国人観光客である筆者を不安にさせた。会場に入ってみると、10坪足らずの空間で展示が行われていて、6人ほどの人が既に展示を見ていた。

2月2日に訪れた時、中央本線画廊では《何十年も前に死んだ。》というタイトルで、杉本憲相の個展が開催されていた。中央本線画廊の紹介では、この展示のタイトルが死者とキャラクターについて作家の観点と共鳴する、とのことだ。作家本人の一文を読むと、パソコンのスクリーンに写る何年も前と同じ姿のキャラクターについて触れている。杉本は、このキャラクターの存在が自ら老化と風化、そして死から逃れ、また安らぐ場にいる、と話しており、多少飛躍するこのポイントに、自らの作品が存在すると明かしている。何十年も前に死んでも、未だにスクリーン上では生きて動いているキャラクターの如く、杉本は断片化された風景、事物、身体が元の姿を失ったにも拘らず、絶え間なくヴァイタリティをあらわにすることに、生と死の新たな観点と身体の可能性を感じとれると語っている。

杉本の作品はこれといったキャプションもないまま展示がされ、キャンバス、撤去された建物の破片など、様々な支持体を用いており、それらに全て漫画のキャラクターのイメージが描かれている。元々、漫画のキャラクターとは映像、またはコマの中で程よい立体感を表し、平面的に存在する。だが杉本の作品において、このようなキャラクターは既存のナラティブを引き摺っているスクリーンから飛び出し、その鮮明さとぼやけた焦点を調整しつつ、物質化を試みている。元の姿を失ったキャラクターの断片は、キャンバスと建物の破片からもう一度稼動するよう試みてはいるが、これらキャラクターの存在は―作家が明らかにしたように―人間の死からの逃げ場として、或いは憩いの場として存在できるのだろうか?

会場で一番大きいサイズのペインティングを見ると、キャラクターは鮮明な目と曇った色彩の身体と区別され、現れている。正面に立つ鑑賞者を見つめるその眼は、鮮明ではあるものの、伸びきった形をしていた。凝視する眼のみが鮮明に浮かびあがるこのペインティングは、一方でデジタルの環境において痕跡を残し再生されたエラーとしてのイメージのようにも見え、また一方では揺れ動く幽霊の目のように見えた。キャラクターの身体から離された目は、その生命力を伸ばそうとするように鮮明にかかれているものの、数フレームほどの移動の痕跡を残しては、前を見つめるだけだった。会場に並べられた別のペインティングには、目ではなく黒の輪郭線が鮮明に描かれている。漫画において輪郭線は、色の有無とは関係無く形を決め付ける。しかし、杉本のペインティングにおいて輪郭線は、キャラクターの形を決め付けるというより、むしろ混乱を招いている。焦点を失った色彩、鮮明な色彩、黒の輪郭線で分離されたキャラクターは、キャンバスに描かれてはいても、不安定な身体をキープしているにすぎない。

平面作品で、作家がキャラクターの身体を分離させ、変形させたのであれば、立体作品ではキャラクターの物質的身体を得ようと試みている。3~4つほどの小さいキャンバスから絵の具はどろっと、ぶ厚い質感で垂れ流れ、絵の具の色と輪郭線はその塊を皮膚のように描き出している。また、横にあるテーブルには撤去された建物の破片と破損された彫像も置かれており、それらもやはりぶ厚く、または厚みなく塗られた絵の具の色によって、破片となった体のように見える。このような過程を経て、キャラクターの身体は平面作品では微かだったボリューム感と重たさを、とてもはっきりと得るに至る。だが、これら立体作品では鮮明に一定のスペース、重さ、ボリュームを占めてはいるものの、破片と化した身体は、キャラクターの形状であることを半ば諦めてしまっている。つまり、キャラクターは立体的な作品になって鮮明な実在になろうとしているが、再度不透明な存在となってしまう。

アニメーションにてキャラクターを動かす要素は様々だ。輪郭線、色、立体感、遠近感、そして時間と運動性、など。だがしかし、杉本はこの沢山の要素が調和を成しながら適用されることを止め、ただ幾つかの要素のみを鮮明に見せている。結果として、スクリーン上で動いていたキャラクターは中央本線画廊の静止した物質として表現され、だがその断片化された身体は、むしろ不安定で不透明だ。他の要素と連動されず、一部のみ鮮明になった杉本の作品は、たとえキャラクターからはかけ離れてたとしても、絶え間なく現れる。つまり、動いていたキャラクターは杉本の作品から自らを成していた要素を独り立ちさせながら、新たな形態と存在の可能性を試し、数十年前も前に死んだとしても、未だ鑑賞者の前に現れ、また―筆者がそうであるように―旅行客のスマートフォンに保存されている。

一方でツイッターには、焦点の外れた写真と共に、この展示のカタログが4月28日から発刊され、発売されるとお知らせがされている。今回の展示についてより細かなことは、本を読んでまた確認できることだろう。

キム・イヒョン Yihyun Kim (紺野優希 訳)

*この内容はソウルで活動する美術批評のグループ、ワウサン・タイピング・クラブの「東京特集」の内の一つです。

原文:도쿄특집 02 – 여전히 저장되며 살아남은 캐릭터에 대하여, 스기모토 켄스케 <수십 년이나 전에 죽었다.> http://t-504.tistory.com/48

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