**阿部共実:月曜日の友達(2)**

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1. 詩的描写力

先日、阿部共実の漫画「月曜日の友達」の第2巻が発売され、それにあわせてインタビューがウェブ上で公開された。読んでいくと、「文章表現について、影響を受けた作家はいますか?」という質問に対して、作者は以下のように述べている。

特にだれの影響とかはないと思うのですが、自分は宮沢賢治が好きです。小学生でも読める難しくない言葉の配列で、ここまで感動的な力を文章に宿らせられるなんてすごいなと思います。だから宮沢賢治のようにだれにでも読みやすくするために、難しい言葉は使わない、というのはありました。だから青年誌なのに、ルビを打ってもらっていました。

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今回の分析のテーマは、上に太字で強調した箇所についてだ。この「難しくない言葉の配列」によって「文章に宿らされた感動的な力」とは、一体どういうものなのか。「月曜日の友達」を読んだ人、そして更には以前から阿部共実の作品に触れたことのある読者にとって、具体的には分からなくとも、伝わって来たに違いない。それはどの作品でもそうだが、その結末まで心待ちにする必要があるわけではない。というのも、随所にこのような傾向が見受けられるからだ。たとえば「月曜日の友達」で筆者が好むシーンは、1巻の終わり、二人乗りをしながら、主人公の水谷茜が月野透の背中越しに、ふと考えをめぐらすシーンである。このような場面は、決して呼吸が長く、深みがある(ようで実は無い)文とは異なる。寧ろ、呼吸は短く、内容も決して難しいものではない。このような表現は、それまでの作家の作品とも通ずると大まかに言ってしまうこともできれば、否、そうとも言えない部分でもある。というのも、阿部共実のそれまでの作品の内、「月曜日の友達」のように言葉の力―ここでは「詩的描写力」と呼びたい―として用いた作品は、近年発表した作品、特に「死にたくなるしょうもない日々が死にたくなるくらいしょうもなくて死ぬほど死にたくない日々」(以下「死に日々」)に、より当てはまるからだ。

1)言葉の力

「死に日々」第2巻より「僕の夢の中のあの子は僕の夢の中のあの子の夢の中ですらどうせ僕を夢見ない夢を僕は見る」

「死に日々」第2巻より「僕の夢の中のあの子は僕の夢の中のあの子の夢の中ですらどうせ僕を夢見ない夢を僕は見る」

阿部共実のそれまでの作品を読むと、この特徴のほかにも言葉の力が、言葉遊びや文字へのこだわりとしてはっきりと窺えるからだ。ガガスバンダス(「空が灰色だから」第1巻)や「死にたくなるしょうもない日々が死にたくなるくらいしょうもなくて死ぬほど死にたくない日々」といったタイトル、そして「死に日々」でそチャプターごとに施されたデザインは、一般的な漫画ではなかなか見ることのできない、阿部共実の作品における特徴と言えるのではないか。これらもまた、広く捉えれば言葉の力と言い切ることが出来る。これらに加えて、先ほど述べた「詩的描写力」は近年の作品、特に数字だけで表されたタイトルのものを読むと、非常にわかりやすい。「7759」(「死に日々」第2巻収録)や「7291」といった作品では、詩的描写力へと作者の関心が傾きつつあるということが分かる(勿論、先に述べた2つの傾向が失われているとは言い切れない。それは割合のようなもので、オール・オア・ナッシングではなく、むしろ関心という円グラフの分けた大きさが変わっただけである)。その点で、この詩的描写力は、「月曜日の作品」にもっとも顕著に現れている言葉の力と言える。勿論それ以外の点―フィルム的なコマの扱い、沈黙など(**阿部共実:月曜日の友達**を参照されたい)―も、以前の作品と関連付けることも可能だ。登場人物に7つの曜日の漢字が含まれている点は「空が灰色だから」の「歩み」で将棋の駒の名前が登場人物に含まれるのと同じで、吹奏楽部と野球部の練習する場面の文字の扱いは、「死に日々」のタイトルごとのフォントデザインにもあてはまる。このように、「月曜日の友達」をそれまでの阿部共実の作品と比べることも出来る。それでもこの作品に詩的描写力が強調されているのは、何故か。

2)漫画の抱える二つのレイヤー

そもそも、ここで言う詩的描写力とは、どのようなものか?或る人はこの表現に違和感を覚えるに違いない。というのも、筆者は文学作品を分析している訳ではないからだ。しかし、あえて言うのであれば、私は「文学作品としてのみ」この「月曜日の友達」を分析しようと思わないからだ。ここに漫画というものが、二つのレイヤーを共にしているということが確認できる。つまり、文学としてのレイヤーと、視覚芸術というレイヤーが重ねられている。それぞれを別々に考察することも実質可能ではあるが、しかしそれではこの作品が文学でもなく、また一枚の絵のような視覚芸術としてでもなく、漫画として存在し、読者に伝える魅力がある所以は、どこにあるのだろうか。そのために、「詩的描写力」という言葉を用いたい。「月曜日の友達」が紹介される時、多くはその内容、つまり「青春」や「ロマンス」といった表現で紹介することもできるが、それならこの作品が漫画である理由、もしくは魅力を度外視しかねない。阿部共実の作品は、一般的な文学では追い求められない部分を漫画という視覚芸術の分野で挑戦し、表現していると言えるのではないか。だからといって、それらが「文学/視覚芸術=漫画」として、完璧に分けられるものではないと、私は考える。そこで私は、それぞれ互いのジャンルにおける特徴として確認されながらも、同時にその両者を結びつける、いわば漫画としての魅力を考えてみることにした。つまり、先ほどの定式から「文学・視覚芸術=漫画」として、アプローチを行いたい。言葉で表現する力、つまり、ここで言う言葉の力である「詩的描写力」が、それぞれ異なる文学的言語と視覚芸術、つまり(ここでは以下)美術的言語によってどのように描かれ、そしてそれらがどう「月曜日の友達」に解きほぐされているかについて、考えていきたい。

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