解体と構築の均衡:アブラハム・クルズヴィエイガス

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<<アブラハム・クルズヴィエイガスの作品において、解体と構築は物理的に循環している。使われなくなったものは、もともとの機能を失っただけで、新たな機能を与えることができる。クルズヴィエイガスの述べた解体は、消滅、そしてゼロからの創造とは異なり、それまでの機能性や脈略から抜け出て、他へと移動する可能性として、構築という概念を同時に抱え込んでいる。>>

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1.レディメイドと使用価値の抑制

すべてのものが失われるとしても、そこには希望が残っている。具体的なソースは無いにしても、多くの人はこのフレーズを耳にしたことがあるだろう。しかしここで言う希望とは果たしてどんなものなのか?それは、「もの」という言葉が物質的なものから概念的なものまで含むのと同様に、ここで言う希望も様々な捉え方が出来るだろう。ここで前文の「失われる」ものを物質的なものとして考えてみたい。地震が起きて、町が壊滅する。しかし、そこには何も無い訳ではない。というのも、元の機能として務まらないだけで、無数の物がそこにはまだ存在するからである。勿論この考察、つまり物質的なものとして捉えた場合は些か楽観主義と言えなくもない。その瓦礫の中で、あれをああ使ってみるのはどうだろう、と考える余裕を持っていない限り、使用価値を見出すという希望は、とても稀なものだからである。しかし、それらは無くなっていない以上そこにある訳であり、これに何かしらの用途を見出すことができないわけではない。その場では、「破壊」というものは「消滅」と異なる意味だ。またもしくは、その単語は比喩的な意味として考えられる。つまり消滅は、「元の使用価値の消滅」という意味でのみ、有効と言える。ここで、マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)の作品とレディメイド(ready-made)を思い起こす人もいるだろう。レディメイドで行われるこの消滅は、展示品と生活用品という極端を行き来する。ここで、一方は価値のあるものとして、そしてもう一方は些細なものとして、一般的に認識されている。デュシャンの作品で確認できるのは、(勿論これは前者を、今でも尚そのように認識しているからでもある)後者が前者へと変わる、つまりは格が上がる可能性である。それは今日、棚の中に置かれた観賞用・保存用のCDと同じ様に、日用品の元の使用価値が抑えられ、神格化される可能性とも言えるだろう。デュシャンのレディメイドにおいて、(観賞用としてはともかく)使用価値としてゼロとなった機能性は、それまで絵画などの芸術作品がそうであったように、ゼロからの創造という極端へと移行してゆく。

Marcel Duchamp, Untitled (Bottle Rack), 1914/1964

Marcel Duchamp, Untitled (Bottle Rack), 1914/1964

Abraham Cruzvillegas, The Water Trilogy 2

Abraham Cruzvillegas, The Water Trilogy 2 (Ginza Maison Hermès, 2017)

2.価値の移行:物の価値を上げることではなく、物の機能を移し変える

アブラハム・クルズヴィエイガス(Abraham Cruzvillegas)の作品は、身近なものを用いて作品を作っている。今年の夏、銀座メゾンエルメスで行われた展示《水の三部作 II》では、作品を見ると新聞紙や段ボールなど、多くの日用品が用いられていることが確認できる。だからといって、クルズヴィエイガスの作品を単純にレディメイドと判断することは難しい。というのも、彼の作品で物が神格化されているというより、日常のレベル(degree)で作品が展示されているからである。つまり、モナリザのレプリカをアイロン台にしたわけでもなければ、便器を台座の上に置いた、極端な価値の変容とは異なる。彼は段ボールでスクリーンを作り、新聞紙で作品を作り、ビール瓶のケースを椅子に見立てている。展示会場ではこのように、日用品の神格化が行われているわけではなく、日用品のレベルで設置が行われていると言えよう。これはむしろクロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss)の「ブリコラージュ(Bricolage)」により近いと言える。見た目が変わらなくても価値が変わるという点では、デュシャンのレディメイドにも共通している。だがここで、間に合わせとも言えるかもしれない、本来の機能から異なる機能への移行は、レディメイドとは性格を異にしている。

Abraham Cruzvillegas, The Water Trilogy 2

Abraham Cruzvillegas, The Water Trilogy 2 (Ginza Maison Hermès, 2017)

Abraham Cruzvillegas, Autodestrucción8: Sinbyeong (Art Sonje Center, 2015)

Abraham Cruzvillegas, Autodestrucción8: Sinbyeong (Art Sonje Center, 2015)

この点で、クルズヴィエイガスは解体された物だけでなく、解体された機能性が、他へと移行できる可能性を構築という言葉と結び付けている。以前ソウルのアートソンジェセンターで行われた展示のタイトルは、「自動解体8(Autodestrucción8): 神病」であったのに対し、今回銀座で行われた展示会には「自動構築」と名付けられた本が置かれていた。解体と構築、この二つは一般的に考えた時、対極的なものと看做される。しかし、実際にはこれらの関係は循環的と言える。ここで解体と構築は、鶏が先か卵が先かの理論と似ている。その二つは、緊密な関係を互いに維持している。脈略から意味がかけ離れ、それを再構築する。鎌はピンとして、新聞紙はたたまれその上の木材を支えている。そこで再構築は、別の他の要素まで含みながら行われる。つまり既存の存在価値としての独自性から解放され、解体と構築の循環の過程で新たな機能を得るとき、それまでは出会うことの無かったものと出会い、その物のために存在するようになる。展示会場に置かれているiPadは、ねじの入っていた箱によって支えられている。入れ物という意味を失いはしたが、それは新たに台座という機能を見出された。この点で、前述のようなレディメイドにおける極から極への移行は影を潜めているといえよう。

Abraham Cruzvillegas, The Water Trilogy 2

Abraham Cruzvillegas, The Water Trilogy 2 (Ginza Maison Hermès, 2017)

3.会場内の均衡:作品とアーカイビング

そうすることで、物神的な印象はここでは失われている。その一方で、作品は神格されたものというより、身近なもの―ここでは新聞紙や段ボール、また木の枝など幅広い材料―が使われることで、展示会場においても際立つものではなくなる。つまり、身近なものを使った構成されたアーカイヴのコーナーと、新聞紙で制作された巨大な作品の違いが、極と極として現れないのである。一般的に書物が置いてあるスペースと、作品の違いは顕著と判断できる。しかしクルズヴィエイガスの展示で、それらは互いに中間項として存在し、生活用品と作品、そしてアーカイブと作品の度合いをも薄めている。彼の作品で重要になるのは、この「何をどう使うか」ではないだろうか。ここで作品の材料が受注した大理石であったり、アーカイヴとして資料が置かれている机、またはその椅子がドスントの座るようなパイプ椅子だったら、また話は変わってくるだろう。仮に二つの内、どちらかにのみ生活用品ではないものが用いられていたのであれば、共に浮いてしまう存在になるだろう―日用品で出来た「つぎはぎ」の作品と綺麗なアーカイビング。または、映画館のようにゆったりとした空間と、時間と予算の端切れになったアーカイビング―。彼のプロジェクトはこのように作品とアーカイビング、機能の移行関係、そしてより根本的には解体と構築による均衡を表している。

(editor K4ø)

=参考URL=

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