まとめ

断想:批評のプラットフォームとは《와우산 타이핑 클럽》(Part 2)(副題:球団、もしくはフットボールチームの設立)

先日、ソウルにある展示空間2Wで行われたトーク・プログラムをきっかけに、筆者が「美術批評のプラットフォーム」について考えをめぐらせてみた。ワウサン・タイピング・クラブ(와우산 타이핑 클럽)に属しながら活動し、何を思ったのか、この場で自分自身に問いかけるよう、「まとまらないまま」まとめてみたいと思う。副題:球団、もしくはフットボールチームの設立

球団、もしくはフットボールチームの設立(1)

Hovering今回トークの行われた《Hovering》のポスター

私の属するワウサン・タイピング・クラブ(와우산 타이핑 클럽)、このネーミングは参加しているメンバーとの話し合い(という名のおしゃべり)から生まれた。(こう書くと、いかにも私が主導権を持っているかのようにみえるが、実際は「全くといっていいほど」そんなことはない。)もちろん他にも候補はあったが、結局のところワウサン・タイピング・クラブという名前に落ち着いた。あとづけではあるものの、この「クラブ」という響きが、どこかスポーツの球団、特に野球やサッカーチームを連想させる。批評のプラットフォームを可視化するためには、まず組織・グループの存在が必要で、その次には何かしらそれを象徴するイメージが必要となる。超現実主義やMAVOに限らず、それまでのアヴァンギャルドの芸術家たちが、雑誌などを作っていたのであれば、私たちの時代に必要なのは、そのグループを象徴し、そして広めることの出来るアイコンではないか。考え方によっては、雑誌や宣言文よりも先立つのは、もしかしたらこのアイコンなのではないか、と私は考える。グループの存在は何によって認知されるのか、それがより多くの人―読者―を必要としているのであれば尚更、その認知してくれる存在を必要とする。しかし、ふわふわと集まって記事を書いただけでは、可視化するには大変弱い、そういう時代である。もちろん多くの結果物を、未来にいるだろう有望な学者に任せることも出来る。批評家が埋もれてしまった作品を掘り起こしたりするように、だ。しかし、それはあまりにも―特に「自ら」評論を書いている人の集まりなら尚更―他人任せではないか。

少なくとも、私は―言葉に反して行動がついていかないことも、もちろんあるが―このように出来ない。なぜなら、評論家にとって、自分の文を評論として生かすことも大事ではあるが、それ以上に評論した作品・アーティスト・展示を伝えることが大事だからである。私がどうその作品を見たか、それは書き手の存在と作品、そしてより究極的に言えば芸術家いなければ、伝えることが出来ない。単なる描写で終わらない、それが批評家の難しい立場である。作品が美術館やアートシーンの中で「新しさ」として(キュレーターや批評家によって)生かされるのであれば、批評家は単純な描写―まるでロボットが作品をそのままに描写したような―とは異なる「新しさ」なので、闘っている。それはエゴに押さえつけられてもいけない。もちろんぱっと見で興味が惹かれない作品もあれば、趣旨の伝わらない展示もある。しかし、それは何故なのか、という表現力を、私たちはそれ(作品や展示)に代わって伝えなければいけない。作品や展示が沈黙してしまったときに、その沈黙を語れるのは批評家という存在ではないか。つまらない番組なら見なければいい、わざわざつまらないと言う必要があるのか、と思うかもしれない。三島由紀夫はビートルズのコンサートに「わざわざ行って」(「時間を無駄にしたかのように」)綴る必要がなかったのかもしれない。しかし、そうすること自体が実は簡単ではない。これは何も難しいことをしている自分に酔いしれているという訳でもなんでもない。批評家はそこにいながらも、そこに常に居ないのである。作品を見て素直に思う気持ちが、如何にしてそうなのか、ということを考えながら、自分からその位置から離れる。そうしてめぐらせた考えを、また自分の言葉で綴る、という行為は、一人の人間が2人を抱えている状況とでも言えよう。

 

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