グループ展

事件と事件性:タイムラインからHouxo Queの壁画を眺めて

導入部:「事件」とはなにか―事件と事件性に踏み込む

火のように明るい建物を、私はタイムラインの流れの中に見ていた。しかし、多くの人、つまり私よりも物理的により近くでそれを見ている人達も、その建物に踏み込むことは出来ても、その建物に「何かが起こったことについて」は、なかなか踏み込めていない。見た限り何人ものユーザーが言っていた「事件性」について、私は「事件」と切り離そうと試み、また「事件」という意味そのものにも異なる位相があるのではないか、と考えた。よって、この文は―ユベール・ダミッシュ(Hubert Damisch)がロザリンド・クラウス(Rosalind E. Krauss)の「Le photographique」において「写真的な(le photographique)」というキーワードを的確に読み解いているように―ある事件について述べてはいない。むしろ、事件とは何で、事件性とは何かについての分析である。

1. 海の向こうのEUKARYOTE:何が起こっているのか?

韓国語の慣用句に、「川の向こうの火を見物する」というものがある。意味としては日本語の「対岸の火事」ではあるが、ここではその意味に縛られることなく、その状況について考えてみたい。韓国語では「見物する」ないし「見る」という言葉がセットで用いられる。その火は火そのものであるが、同時に火が起こった様々な理由を考えてしまう。火事なら消防車を呼ぶ必要があるし、蓋を開けてみたらより深刻な事件であるかもしれないし、単に野焼きをしていただけかもしれない。そこに見える火は、火以上のなにか、つまり「何故、火が起こっているのか」、という理由を考えらせるにいたる。

以上が、私なりに述べた今の立場である。ソウルに住んで学校に通っている以上、私は日本の事情、特にアートシーンを海を挟んで見るほかなかった。しかし、以前は海を挟んで向こう側を見ることすら難しかったのに対し、今日に至ってはスマホを片手にTwitterやFacebookのタイムラインに目を通すことで、向こう側で燃えさかる話題を確認出来るようになった。日本のアートの動向をTwitterで必死に追いかける最中、興味深い内容を目にした。それは、CANCERがEUKARYOTEで今月の頭から始めた展示、その中でも特にHouxo Queの作品に皆が触れるときの表現に興味が抱けた。建物が赤く覆われ、それを見る人はTwitterに「事件性」という言葉でその印象を綴っていた。私はその赤い作品、そしてそれを描写する際に用いられる「事件性」という言葉を、ソウルの地から見ながら疑問を抱いた。「なぜ、事件性が感じられるのか?」

2. 痕跡から事件は特定される:痕跡は複数の事件を孕んでいる

現在EUKARYOTEで開催されているCANCERの展示、《THE MECHANISM OF RESEMBLING》においてHouxo Queが制作した壁画、〈mural〉は実際に見ると、そのインパクトに驚きを隠せないのかもしれない。しかし、その時に生まれる驚きは、おそらく「美術」をはじめ「現代アート」や「それまでのペインティング」などにおける「大胆さ―ある人はアヴァンガルドと言ってしまいそうな―」、つまり知識に基づく衝撃ではないだろう。むしろ、そういった特定の知識ではなく、見た印象として「なんかすごいな」と一般的に言ってしまう。この後者の場合に、「事件性」という表現も頻繁に登場するのではないか。いわば事件性は、何事も特定できないという前提に基づくからだ。

「事件性を感じる」ということと「事件を知る」ことは、似ているだけで、そこには違いが見受けられる。事件性を感じると言う時、それは事件の存在を曖昧なまま反映している。例えば、道端にカバンが無造作に落ちていた状況を思い浮かべてほしい。それをある人は疾走の手がかりと看做し、一方である人は素通りしてしまう。カバンが落ちている状況は、事件そのものを表してはいない。それはスタート地点に過ぎず、そこを拠点にして今もう既に起こってしまった事件に辿り着くのである。しかし、その痕跡は実のところ、何も深刻なことが起こっていないものとしても存在する。カバンはただ落ちただけだった。その時、日本語で言う事件性はゼロになるだろう。その痕跡は、特定できるある事件ではなく、事件たちが存在する。このとき、日本語で言う事件性、つまり事件の証拠になるようなものは、より幅広い意味で解釈することが可能になる。事件性から究明はできても、事件性は一瞬で知ることができない。

3. 事件性はなにも特定できない

筆者は「事件性がある・事件性を感じる」という言葉に触れながら、韓国語でそのような表現が見受けられないことに気がついた。しかしながら、言葉の壁の前に崩れ落ちるような態度ではなく、むしろ韓国語に訳すことで「事件性」の意味、そしてHouxo Queの作品〈mural〉と「事件性」の関係にフォーカス出来るようになった。事件の証拠と見て取れるゆえに、人々はその状況や対象を見て、事件性を感じる。しかしここで、事件と事件性のつながりは極めて曖昧である。事件性を感じるという場合、日本語ではどうしても犯罪や特定できる事件と結び付いたニュアンスとして、私には感じられた。だが、韓国語で事件性を直訳すると、それが事件の存在を確証はしてくれない。つまり事件性に、事件が必ずしもつながりはしないのだ。先に述べた例のように、事件性を感じても、事件が棄却される可能性、つまり元から存在しない可能性もそこに孕んでいる。Houxo Queの作品を見て感じ取れる「事件性」は、必ずしも今そこで起こっている事件、もしくは事件があったということには結びつかない。よって、事件性という言葉そのものが、事件の不在までを示している。

しかしながら、〈mural〉には何かが起こったことは明らかだ。赤く染まった建物は、もともとそこにあったわけではない。それならば、その異様な光景を目の当たりにした時に感ずる事件性とは果して何か。それは事件性である。これは何も同じ言葉を繰り返したい訳ではない。その言葉がもとより示す、より広範囲のニュアンスに帰するだけである。先に述べたように、事件性は事件の不在まで示している。ここでいう不在は何も、事件という事後的な特徴―「既に犯人が立ち去った」というような―に基づいているのみではない。はじめから事件が起きていないことまで含めた不在、それまでも含んでいるのが事件性である。韓国語に訳した場合、事件性はむしろ、何かが起こった、という広い意味で捉えることが出来る。訴訟問題の有無に関係なく、そして根本的に事件がはじめから無かったことまで含め、事件性という広義に注目してみる必要がある。

4. 痕跡は原因を裏切る:廃屋は廃屋ではない

ならばそこに何もないのか?何かは「起こった」。そう、ここでいう事件は事件性がそうであるように、非常に多義的なのだ。その何かが起こった状況、そこにはhappenings, events, affairsの塊が痕跡として現れ、ただ狭小の意味によってのみ、事件性は犯罪的な(criminal)行為と結び付けられる。痕跡を見て事件と結びつけることは、極めて不可能である。その断言不可能性によって、はじめて見る人は赤く染まった建物に「事件性」を感じ取るのである。だがそれは、決してある事件があったという確証までには辿り着けず、事件という意味の広義に帰する。それはトラックの運搬ミスかもしれない、もしくは犯行の痕跡なのかもしれない、もしくは、アートという結果物なのかもしれない。痕跡の示す事件は広義ではあるものの、何れもいたってシンプルである。「何かが起こった」だけなのだから。

このように考えてみた時、Houxo Queの作品はとてもシンプルな次元に置かれているように見える。「何かが飛び散った」というだけであって、そこに犯罪の臭いを嗅ぎつけるようなら、おそらくそれは赤(に近い)色のせい、またもしくは、建物の機能性を視覚的に抑えつける、つまり外見というインターフェースを抑えつけることで、内部までも作動しないように見せていることに由来する。これは廃屋の論理とも言え、建物が建物として機能しない場合、いくら内部から問題が生まれたとしても、外見が先んずる。つまり、ハードウェアとして綻びが目立てば、実際に機能する内部まで自然と機能不全と考えられてしまう。しかし、このEUKARYOTEの建物は実際に内部が展示会場として機能している。その点でHouxo Queの〈mural〉は、今私が長年使っているDELLのパソコンのようにも思えてならない。外と内部の関係が影響を受けることなく、隔たれている―怪我はしていなくても、癌(CANCER)にかかっているのと同様に。何かが起こっている、しかし内部には影響がなにもない。それは理由づけと探偵の必要のない、創作における純粋な行為に近いのではないか―キャンバスに一本線を引いて、アーティストが意味を与えることもなければ、また批評家がその当時のアーティストの心理状態と照らし合わせることもないように、だ。

 

紺野優希

 

*CANCERの展示 《THE MECHANISM OF RESEMBLING》は、EUKARYOTEで6月8日~7月1日まで行われます!