まとめ

静かな森は何を囁くのか:《Exhibition of Exhibition of Exhibition》/ 조용한 숲은 무엇을 속삭이는가 : 《Exhibition of Exhibition of Exhibition》

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韓国、ソウルにあるセシル劇場(Cecil Theater, 세실극장)で5月7日~15日、《Exhibition of Exhibition of Exhibition》という展示が開かれた。この企画では2000年以降に制作された、韓国人アーティストによる映像作品が50本選ばれ、日程ごとに異なる方法で上映が行われた。テーマに基づいてキュレーションされたものを観ることもでき、またiPadなどの機器で選んで鑑賞することも出来た。またその一方で、24時間ランダムで上映するという企画も行われた。筆者は滑り込みで最終日の24時間上映プログラム(24時間スクリーニング)に参加して思ったことを、ここに綴ろうと思う。

映画館で映画を見ずに、どんな話が出来るだろうか?おそらく、映画を文字通り取り巻く、つまり映画の上映方式といった外的な話を出すことが出来る。そのように考えた時、今回行われた《Exhibition of Exhibition of Exhibition》も、スクリーン上の映像そのものよりかは、それと関連する枠組みに目を向けることが出来る。諺に「木を見て森を見ず」とあるが、それとは反対に「森を見て木を見ず」ということもある。

ということもあって、今回のその展示で映像作品を観た人がどれほどまでいるかが、とても気になるところだ。勿論、今回の展示の意図が純粋に作品の鑑賞だけにフォーカスを当てたわけではないため、鑑賞者もまた映画館・劇場という枠組みについて考え直すことも出来た。しかしその一方で、人々が実際に劇場に足を運ばなくとも、今回の企画について話をしているようにもみえた。展示の行われる論理に関心が注がれるあまり、人々はそこで行われているプログラムを実際に観ずとも、展示について話が出来た。筆者もまた仮に、最終日に行かなかったとしても、今回の展示についてある程度の話が出来ただろう。というのも、ここで注目すべきポイントが上映作についてでなく、展示の行われ方について―より簡単に言うと「展示とは何か?」―だからだ。この点を踏まえて言うと、それぞれのテーマに沿って行われた上映プログラムに筆者は参加できなかったため、個別の作品はおろか、そのプログラム全体についてもここでは話すことが出来ない。仮に言ったところで、見ていない人たちでも出来るありきたりな話になってしまうだろう。筆者は個々で、それぞれの作品でもなければ、展示のコンセプトや構成でもないポイントを話そうと思う。一般的に大切だといわれている展示の要素、それらが無化されるポイントである「24時間上映プログラム」をもとに、何―想像がつくだろうが「枠組み」―を目の当たりにしたのか、話そうと思う。

24時間という言葉は一次的には人々へ忍耐を求めるように捉えられる。一時間でなく、24時間、一日の全ての時間がその一言に含まれている。だが二次的には時間性が無化されたとも捉えられる。つまり、「いつでも」の意味を含んでいる。この言葉は今日、コンビニやインフォメーションセンターに頻繁に修飾詞としてつけられ、そこで想定されるものは、応対を引き受ける人とその場を訪れる人が、互いの時間を気にすることがないという事実だ。約束された時間、事前に合意した時間とは異なり、今回の展示で約束されたものは、ひょっとすると、そこで50本の作品が上映されるという、大まかに決められた約束事なのかもしれない。

正にこの特性によって、筆者は展示に行くことが出来た。終えなければいけない事柄を終え、時間は9時を過ぎていたが、それでもそこに映像が上映されるという事実を聞いて、劇場へと向かった。一般では6時にクローズとなるアートスペースとは異なり、24時間のあいだ上映されているという事実は、筆者を含む観覧客に一種の慰めともいえよう。いつ行っても、また本人が望む望まないを問わず、そこに映像が存在するという前提によって、ほっと安心できる。座って安らぎながら、暫し映像を見ている途中、ふと映画を一つのチャンネルで立て続けに放送する韓国のチャンネルが思い出された。初めて韓国に来て驚いたことの内の一つだが、殆どCMも映らないまま続けられる放送を見て、ニュースからはじまりドラマ、お笑い、その他バラエティが、CMをはさみながら放送される日本のテレビとは違うと、その時感じた。一つのチャンネルで映画だけ―他にゲームとアニメのもあったが―立て続けに放映されるのを目の当たりにし、時間的な感覚が麻痺したはじめの経験と記憶が、その時思い起こされた。

しかし、テレビの番組欄とは異なり、《Exhibition of Exhibition of Exhibition》において観客はランダムな流れにすべてを任せるしかない。上映時間が書かれたものも無いまま上映される映像は、一種のギャンブルにも似た魅力がある。次はもっと興味をそそる作品が出るのかもと、(本当に)知る由もない期待は、いつその場を離れてもいい条件と共に、ずっと居続けたい条件として与えられた。ダグラス・ゴードン(Douglas Gordon)の作品〈24時間サイコ〉(1993)において、原作の映画が24時間に膨張されたなら、24時間ランダム上映プログラムにおいては、鑑賞者が芸術作品を観る期待を膨張させる。ここで、人は「ある芸術作品」ではなく「芸術作品ら」を鑑賞する姿勢で劇場を訪れる。観れなかった作品まで含めて、また数回観た事のある作品、更には望んでいない作品も上映される事実が、前提とされている。それならこのプログラムにおいて、観客は映像を取り巻く枠組みを、どのように捉えることが可能だろうか?

観客は24時間いつでもそこに気安く向かうことが出来る。ジョナサン・クレーリー(Jonathan Crary)の本のタイトルを借りて言うと、「End of Sleep(邦訳:眠らない社会)」は「眠ることが出来ない」という内容だけでなく、「かつての睡眠(Sleep)という概念が色褪せた状態」を(おおまかに)指してもいる。つまり、私が寝る時こそが寝る時になり、もう時間に抑留されることがなくなる。よって、セシル劇場に人々が足を運ぶ時こそが、まさしく作品を観る時間となり、作品を鑑賞する経験となる。しかし、そこでは準備されてあるもの、つまり決まった50本の映像作品がランダムで上映される際限に従う必要がある。この特徴のせいで、家で好きな映像を検索して観るのとは違い、一般的な「展示」の概念に符合したと捉えられる。つまり、私が作品の位置を再度組み立て、テーマに合わせて扱えないまま、ただ流れに従わなければならない。

よって、セシル劇場で映像を観るときの落ち着きは、普段とは異なるタイムラインへ意識の流れを委託することになる。《Exhibition of Exhibition of Exhibition》が同じ言葉の繰り返しに見えるように、24時間プログラムもまた、展示の次元へ留まっている。しかし、それは日本の「24時間テレビ」のように担当者が構成するものとは異なっている。むしろ、意図も無く作品をただ単にに並べて見せているため、「純粋な」所蔵作品展に近い。保存された映像をランダムで上映、それはまるでアルバムの画像をスライドショーで見せながら、時折惹きつけられる画像があらわれる様子のようでもある。よって、今回の企画では「展示」という言葉が単に「見せる」という意味ではなく、美術館の企画において再度位置づけされることを露わにしている。純粋に並べることによって出来た森は、展示において企画と構成が求められるという話しを、観客に伝えてくれている。

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