まとめ

断想:批評のプラットフォームとは《와우산 타이핑 클럽》(Part 3)(副題:ぷらっと、プラットフォーム)

2. 異質さを受け入れる

趣味官《趣味官》(趣味家, 2017)の展示風景(イ・ウンセ 이은새)

私が展示会に行く際、これといった理由も、これとも言えない理由も含まれる。目的や目標が先走ってしまうと、それ以外の可能性に対してオープンでいられない。目的と結果が同等関係であることは、それ以外のノイズや異質さを剥ぎ取ってしまった、もしくは見過ごしてしまったと言える。私の経験で言うと、昨年、近いから(歩いて20分程度)という理由で、趣味家(취미가, Taste House)に行ってきた。その時の展示が《趣味官(취미관)》であった。Twitterでも告知が流れてきたが、そこまでまじまじと展示の内容を熟知した訳ではなかった。ただ単に、気になったから行ってみただけだった。しかし、そこで目の当たりにした異質さは、想像すらしなかった私を散々うろうろさせる、そして記事に書き上げる結果を及ぼした。後に別の記事で紹介するつもりだが、ショーウィンドーの中に、アーティストの作品やデザインしたものまで、あらゆるものが納められているのである。展示会というより、(実際に購入も可能で)フェアに近い。ここで仮にこの展示に「イ・ウンセ(이은새)の作品を買おう」と目標だけを持って行けば、それ以外の細かなもの―展示のしかた、他のアーティスト、ディスプレイの仕方、やってくる人の反応、どんなものを買っているか、店員なのか、ギャラリストなのか、などなど―をキャッチできなかっただろう。

その困惑、趣味家の場合「これが展示なのか?展示じゃないなら、なんと言うのか?やっぱり展示なのか?展示という考えそのものが狭いのか?」という疑問が、私の頭の中で渦巻いていた。渦はまた新たに生まれ、またくっついて一つとなり、大きくなったり、小さなくなったりした。この異質さ、これに目を向けることが大事なのである。それは、自身の許容値を広げることで、多くのひっかかりを設けることが出来るからだ。そして、ひっかかったものを真摯に見つめ、考えることで、(私の場合は最終的に)満足のできる評論が書けた。その許容値をどれほどまでに広く受け入れることが出来るか、それこそが「無責任に」展示会場を訪れることと併せて重要である。余談かもしれないが、このフィールドもまた、徐々に付き合いが深くなると、なかなかその眼差しを持つことが難しくなる。ただ褒めて、もしくは「展示やれて良かったね、おめでとう!」とお祝いの場と化してしまうからだ。そこで展示はイベントや恒例の挨拶となってしまい、それ以上の深みを求めることが難しくなってしまう。なので、アーティストもまた、観客に「無責任」な態度で接することも必要になってくると思う。「どこか気になることは?」とか「正直に言ってみていいから」と、訪れる人を―これは私自身が望んであることかもしれないが―困惑させてほしい。(その点で、サルビアで展示会場で話をかけてくれた、アーティストのチョ・キョンジェ(조경재)は、本当に話していて楽しかった。)

チョ・キョンジェチョ・キョンジェ(조경재)個展(サルビア, 2017)

これは私の考える「留学」にも当てはまる。(話を広げるようにも思えるので、次ページに進まれても構わない。)私は留学する時に、目標を対して持っていなかった。行くしかないと言われ、ああそうですか、という、テキトウにも見えるはじまりだった。しかし、これが最終的によかった。というのも、目標をセットしていたら、その目標にしがみついてしまうあまり、周りの多くの情報、つまりソウルという街の雰囲気、韓国語の表現、そして(些細なものまで含んだ)慣習などをキャッチすることが難しかったと思う。もしくは、その異質さを受け取れず、「根こそぎ」拒んでいたと思う。私の考えていた―それこそ、鍵括弧をつけた―「韓国」や「ソウル」ではない、という認識によって、これらのノイズはマスタリングされてしまう。違うのだ、そのノイズまでを―だだ流しにするわけでもなく―受け入れる心構えが、(簡単ではないが)求められるのだ。

 

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