まとめ

断想:批評のプラットフォームとは《와우산 타이핑 클럽》(Part 3)(副題:ぷらっと、プラットフォーム)

先日、ソウルにある展示空間2Wで行われたトーク・プログラムをきっかけに、筆者が「美術批評のプラットフォーム」について考えをめぐらせてみた。ワウサン・タイピング・クラブ(와우산 타이핑 클럽)に属しながら活動し、何を思ったのか、この場で自分自身に問いかけるよう、「まとまらないまま」まとめてみたいと思う。今回の副題:ぷらっと、プラットフォーム。

1. 無責任な訪問者

今回日本に帰る際、少ない日数で美術展を巡礼する。多くの人が聞くだろう。「そこまでして展示会に行く理由とはなにか?」答えはいたって簡単である。「理由なんて何も無い。」これには同意できない人も多いだろうと思う。展示を見て楽しみ、思い出を作って、大満足、そうしなければいけないのではないか?と疑問に思う人も多いだろう。しかし、私に限って言うのであれば、「まぁ、それも悪くない。」というのも、結局は展示に行くということを前提にしない限りには、あらゆる可能性―予想通りの結果、予想だにしない結果―は生まれないのである。もちろんこれは、批評家としてのスタンスがある程度反映されているから、とも言える。つまり、何故その作品が魅力的に感じたのか、を伝える立場としての、ひとつの心構えである。その作品を「展示会の情報として」キャッチすることは、ある程度昔より楽になっている。しかし、そこから現実のものを見ようと思えば、また話は変わってくる。特に今日、インスタレーションや映像作品といったものは、それまでの絵画とはことなり、空間の中にどのようなものを用い、どのようにセッティングされているかを、実際に確認する必要もある。作品を批評する際に、先んずるのは「作品」のように見えるかもしれないが、実際には情報、そしてそれを元に「自ら実際に足を運ぶこと」である。作品はそこにあるかもしれない。しかし、それが日の光を浴びるのは、見る人が居て・来てこそではないか。

私は(フィーリングの違いはあるものの)面白そうな展示も見に行けば、つまらなさそうな展示も見に行く。ここでひとつ韓国語で好きな表現を言うとすれば、「オッチョダガ(어쩌다가)」だ。ニュアンスとしては「そうこうしているうちに」に近いと思われるが、私の感じたオッチョダガは、「そうもこうもしないうちに」により近い。かなりこの表現は「事後的」である。よって、この「テキトウにも見える」態度が、気に入らない方々も多いと思う。後付ではないか、と或る人は思うかもしれない。しかし、事後的というのは作品を「見た」という事実に関してである。それに繋がるきっかけ、それは結局のところ「オッチョダガ」なものによる。これは、東浩紀さんの「弱いつながり」を読んだあと、「偶然性」や「弱い絆」というキーワードに惹かれた理由でもある。作品に先立つのは批評であり、批評に先立つのは、(「弱いつながり」でも強調される)無責任さ、つまり私の言葉で言うなら「オッチョダガ」である。実際に今まで細々と批評文を、Interlabワウサン・タイピング・クラブ(Wowsan Typing Club, 와우산 타이핑 클럽)、そしてこの、Life as Freelancerで紹介しているが、ふらっと行って―行ける距離だった、とかなんとなく、という理由で行った―、見てきた展示は、時にそのコンテンポラリー(・アート)な異質さに耐え切れないこともあった。しかし、この異質さに「しっかり」目を向けること、そうすることで展示会に目標を「与えた(過去形)」心構えより、多くのことをキャッチできる(可能性が存在する)。

 

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