現代美術

翻訳と拡張:トマス・サラセノ《惑星、その間にいる私たち》展

Tomás Saraceno, Our Interplanetary Bodies, the exhibition, 2017

**翻訳と拡張:トマス・サラセノ《惑星、その間にいる私たち》展**

 

<<作品は何をとおして生まれるか?かつてキャンバスには作者の眼を通して風景が描かれていた。今日において作者の眼だけでなく、多くのインター・メディアを通して作品が生まれている。トマス・サラセノの作品では光や音響が様々な感覚に変わる、「翻訳過程」が行われている。>>

 

1.作品と作家を結ぶもの―インター・メディア

 

 ある画家が山を描いたとする。絵に描いた餅という言葉がそうであるように、それは実際の存在ではなく実際の写しである。このとき、実在・実物と画家の関係はどのように考えられるか。ここでは対象のルーツがどこにあり、それがどのような過程を経て作品となるマテリアルに写されるかについて、考えてみたい。大まかに分けて二つに分けられるのだが、一つは実写-写実である。目の前に山があり、それを画家の眼を通して描くということだ。ここでは人間の眼、もしくはカメラといったものが、その中間位置に置かれ、最終形態を生み出すのに重要な媒体(メディア)となる。そしてもう一つは、純粋に作者の想像の産物、つまり原本そのものが人間の想像に依るものという点である。表現される対象は前者のように「実物→画家の眼→マテリアル」と移動するか、また後者のようにで「想像→マテリアル」へと移動―もしくは変化―する。このとき、後者は「想像の反映」という形で作品、そしてその対象に表れる。つまり既に頭の中に(より直接的な)「実物→画家の眼」の過程が事後的に含まれているのである。反対に前者の場合、それはこの過程の問題、つまり翻訳(translation)の問題になってくる。ここで概念的に二つに分けてみたものの、それは芸術作品を分析した際、事後的に現れるためその区別が難しい。ポール・セザンヌ(Paul Cézanne)の絵画は前者に当てはまるが、その対象と実物の関係性はむしろ二つ目の観点に近いよう思われる。彼は時間の流れる中で山の姿を描こうとした結果、それが実際の眼で見たにも関わらず、作品にはリアリティを感じることが大変難しい。この結果物だけを見たときに、それが頭の中で描かれたものと何が変わるのだろうか?判別は大変難しい。

 

Paul Cézanne, Mont Sainte-Victoire, 1904-1906Paul Cézanne, Mont Sainte-Victoire, 1904-1906

 

Joseph Kosuth, One and Three Chairs, 1965Joseph Kosuth, One and Three Chairs, 1965

2.トマス・サラセノとインター・メディア

Tomás Saraceno, Our Interplanetary Bodies, the exhibition, 2017Tomás Saraceno, Our Interplanetary Bodies, the exhibition, 2017

 私の考えで翻訳過程ははじめ、ジョセフ・コスース(Joseph Kosuth)の〈1つと3つの椅子〉に表された。ここで根本的な翻訳対象はプラトンの述べたイデアに近い、根本的なものである。それは木でできた椅子であることもあれば、椅子という定義であるかもしれない。または、その木の椅子をカメラで撮影し、原寸大で壁に貼り付けた写真であるかもしれない。それはそれぞれ異なる椅子の翻訳過程である。このような翻訳過程は今日科学技術をもとにして、様々な形で表れることになる。例えば、サーモグラフィーや顕微鏡はひとつの翻訳過程である。この翻訳過程は、実在対象を歪曲する訳ではなく、異なる言語に「移動」する(「根本的な変化」とはあえてここで言わないでおこう)という点で、翻訳する対象とされたものは等価関係に置かれる。異なる形に移されるされるだけであって、つまり表現が異なるだけであって同じものだ。今回韓国のACCで行われたトマス・サラセノ(Tomás Saraceno)の展示《惑星、その間にいる私たち》では、この翻訳過程が視覚だけでなく聴覚にまでも及んで表現されている。展示会場に置かれているクモの巣は、光のプロジェクションをとおして、真っ黒なスクリーンに拡大されて映る。ここで翻訳されたクモの巣は、実際には小さなキューブに入っていることもあり、その様子をなかなか確認することが出来ない。プロジェクションで照らされたクモの巣は姿は、その影ということもあってここでいう「完璧な」翻訳ではない。それは括りつけられた囚人達の影のように、その光の存在を知らなければ、映し出されたクモの巣と判断できないだろう。仮により完璧な翻訳を求めるのであれば、そのクモの巣を拡大してプロジェクターで映すことが最適ではないかと私は考える。これらは互いにその翻訳に根本的な共通点、つまりインター・メディアを備えている。前者ではただ単に光を当てる行為、後者が仮に行われた場合はミニ・カメラがその翻訳に重要なものとして扱われる。今回の展示でより興味深い翻訳があるとすれば、それはコスミック・ダストを聴覚的に捉えたことだろう。サラセノは展示会場に舞うその埃を立体的に感知し、それを音として捉えることで会場内に響かせている。それは物質からの聴覚への翻訳過程である。会場内に響く渡るサウンドは、リアルタイムでその空間を舞う埃によって、そしてその埃を感知するプログラム―よりシステム化され具現化された翻訳機ともいえよう―によって、聴覚という異なる言語に移し変えられる。これは先ほど取り上げたクモの巣の視覚的翻訳と比べた時に、より完璧な翻訳に近いと言えることが出来よう。

Tomás Saraceno, Our Interplanetary Bodies, the exhibition, 2017Tomás Saraceno, Our Interplanetary Bodies, the exhibition, 2017

 

Tomás Saraceno, Our Interplanetary Bodies, the exhibition, 2017Tomás Saraceno, Our Interplanetary Bodies, the exhibition, 2017

 

3.拡張された場―翻訳とネットワーク**

 

 この翻訳過程は、よって一種の拡張された場を生み出すことになる。物質は聴覚、視覚として翻訳され、そのもとの(イデア的な)姿を崩すことなく異なる形であらわすことになる。しかしこのような概念的な拡張だけではなく、サラセノの展示ではそれが相互関係としてリンクされている。リアルタイムでクモの巣に伝えられるサウンドは、その僅かな振動としてクモの巣に伝達され、結果的にスクリーンに映し出される。ここでは翻訳というものが「純粋な反応」という段階にまで達していることが分かる。風が頬を軽く叩く、という表現のように、そこでクモの巣には聴覚が振動(と翻訳され)で伝えられている。この翻訳過程には展示会場に響き渡るサウンドという一種の媒体が機能しており、それは翻訳というものがその対象と結果の距離に大きな距離を生み出さないという点で、ひとつのネットワークのような機能を果している。翻訳過程は画家の眼という「その時、その場所で」からより発展を遂げた、今日におけるCCTVやSNSといった「広-次元」に及ぶまで、その距離を最小化した。(「極の不動」と主張したポール・ヴィリリオ(Paul Virilio)の分析は、この距離感がより瞬時的なものになったことに基づくといえる。)そしてサラセノの場合、それはより多くの感覚の行き来として展示会場にクモの巣のようなネットワークを張り巡らしている。

Tomás Saraceno, Our Interplanetary Bodies, the exhibition, 2017Tomás Saraceno, Our Interplanetary Bodies, the exhibition, 2017

(editor K4ø)

 

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