**現代美術における写真と時間性:杉本博司の写真**

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**現代美術における写真と時間性:杉本博司の写真(Cabot Street Cinema, Massachusetts)**

杉本博司

杉本博司

<<絵を描くときに、画家はその場にいる。カメラの場合は、人間がその場に居続けたとしても作品として撮るのは「一瞬」である。写真の特徴でもある瞬間の中で、時間の経過や流れ―時間性―がどのように表されるのか、杉本博司の作品を中心に分析する。>>

Jan Dibbets, Shortest Day, 1970

Jan Dibbets, Shortest Day, 1970

1.写真と時間性:ヤン・ディベッツの写真作品と瞬間

夜明けから日の入りまでの移り変わりは、グラデーションを生み出すことで極端な昼夜の対立ではなく、日の移り変わりを感じさせる。このように一つの視点で流れるように捉えたヤン・ディベッツ(Jan Dibbets)の作品―例として〈コンラド・フィッシャー・ギャラリーの短い一日〉―は、モネが聖堂を描いたのとはことなり、瞬間の連続によってに表現された。それは写真の中に収められたシーンが時間性(duration)を伴わないというだけでなく、それ以上に作品と人の関係が、瞬間に留まるという意味でモネの作品とは異なる性格だ。カメラマンは、キャンバスの前であれこれ考える画家とは異なり、ひょこっとやってきてはパチッと押しさえできれば、そこに居なくても良いのである。瞬間に収められたそのイメージ、それはこの記事のはじめの一文を否定することになる。 「流れるように捉えた」という表現は映像でもない限り、最終的な作品の前に表れない。つまり、視覚的に流れるように見えるのはその瞬間が時間差によって異なる形で表れただけであって、テオ・アンゲロプーロス(Theo Angelopoulos)の映画〈霧の中の風景〉に出てくるような固定フレームとは―方法は同じでも道具が異なるという点だけで―表現上異なるのである。よって、ディベッツの作品が流れるように見えるのは、(作者にとっても)事後的な結果によってである。それは瞬間を記録した結果物、その被写体に現れた差異―ここでは日射条件と言える―によって、時間性が表れる。

Claude Monet, Rouen Cathedral, West Façade, Sunlight, 1892

Claude Monet, Rouen Cathedral, West Façade, Sunlight, 1892

Theo Angelopoulos, Landscape in the Mist, 1988

Theo Angelopoulos, Landscape in the Mist, 1988

Hiroshi Sugimoto, Cabot street cinema - Massachusetts, 1978

Hiroshi Sugimoto, Cabot street cinema – Massachusetts, 1978

2.写真と時間性:杉本博司の写真作品とヤン・ディベッツの写真作品

時間性への問いかけは、ディベッツの作品で瞬間の結果物として表れるのであれば、杉本博司の作品では時間性としての結果物として表れる。<劇場>シリーズにおいて、作者は映画の上映中露光することで時間性という要素を作品へ取り入れる。作品として表れたものは、映画が上映されている間の様子である。だがしかし、その結果として表れるのは真っ白なスクリーンである。その静態的な印象は、(スクリーンに映される)映画という時間芸術と周りの建築的構造―観客席の椅子、舞台、天上部位など―が本来対を成すものと考えた時に、杉本博司の作品では同じ様に表れている。

ここで、先の述べたディベッツの作品と比べてみながら時間性と写真について考えてみよう。ディベッツの作品と杉本の作品では共にカメラを用いた―そして写真という結果物が最終形態として現れる―という点と、機械の力を借りて、モネのように作者が被写体の前に必ずしも居る必要がないという点では共通している。カメラは作者によって委託されその場面を写す。また、杉本の作品で建築的要素と、時間性を伴うもの―スクリーン上の動きがそうだ―は、ディベッツの作品と同様に、その形を崩さずして現れているのが伺える。ディベッツの作品で暗闇の中、微かに見える建物の一部分は、日中に撮られた写真に現れるようにその存在を留めている。だが、杉本の作品でスクリーン上の動きは真っ白という一色に凝縮されている。多くの映像が流れているにも関わらず、真っ白に表れたスクリーン。これはひとつの道教思想とも関連付けることができるかもしれない―空っぽは満ちているといった―。しかし、ここで何よりも私が強調したいことは、ディベッツの作品と比べてみながら、写真において表現される時間性は、それが瞬間として記録されたものの差異と反復によってしか、視覚的に感じられるよう表れないということである。

Eadweard Muybridge’s Photography

Eadweard Muybridge’s Photography

Sharon Lockhart, Goshogaoka Girls Basketball Team: Ayako Sano, 1997

Sharon Lockhart, Goshogaoka Girls Basketball Team: Ayako Sano, 1997

3.写真と時間性:杉本博司の写真作品と瞬間-時間性の葛藤

ディベッツの作品は瞬間としての連続であり、その連続は必ずしもビデオで撮影したのと同じではない。ある瞬間とある瞬間の間は前後関係で位置づけられ、それが正確に数秒後間隔で撮られたものではなく、その撮られなかった間は長さに関係ない。例えば、彼の作品で午前10時に撮った写真の横に午後11時に撮った写真が並べられていたとする。そしてほかの作品も一時間単位で撮られたとする時、一時間の間に撮られていない時間という差が存在する。仮に連写で朝から夕方まで撮られていたとしても、作品に表れるのは抜粋された瞬間の前後配置だけである。

一方で杉本の写真ではそれが凝縮された結果物として一枚に収められている。より時間性が「忠実に」表されているのは、ディベッツの一時間に1枚撮られたかのような、いわば瞬間の前後関係の抜粋によって表されているものではなく、杉本の1枚であるといえよう。しかし、杉本の作品は自ら葛藤を生み出すことになる。それは写真ゆえの表現、つまり、瞬間であればあるほど、その前後関係の違いが明瞭であるという点である。エドワード・マイブリッジ(Eadweard Muybridge)の馬の動きを捉えた写真がそうであるように、 フリップブックの前後関係のほうが、その動きと共に時間性を体現している。

他の例としてシャロン・ロックハート(Sharon Lockhart)の写真作品がある。バレーボール部の動作をワンシーンだけ捉えたものは、その前後の脈略から切り離されて、動きという時間性として表されていない。ぶれもなしに写された彼女の作品は、スポーツ漫画に見られるような緊迫感ではなく、どこか滑稽とも感じられる瞬間として表される。ロックハートの作品で確認できるように、それは瞬間の繰り返しを必要としてこそはじめて、動きという時間性の表現となる。杉本の作品ではディベッツの作品のように反復を伴って時間性が表現されている訳でもなければ、ロックハートのように動作の一瞬だけを表した訳でもない。彼の<劇場>シリーズが表すのは、一枚の写真に収められた時間性が、実際の時間の反映であるのにも関わらず、それを表面的に表現する際にはそれが表されないという点である。

(editor K4ø)

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