線は引かれるもの:BIEN《WOOZY WIZARD》

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1.生成途中の線

BIENの個展《WOOZY WIZARD》が、Block Houseで先日行われた。今回の平面作品は、一見、特にネットにアップされた画像で見ると、それはフォトショップやイラストレーターのツールで描かれた線のように見える。実際にこの線は、ベニヤ板に機械で丁寧に彫られたもので、それは文字や記号、そしてアニメのキャラクターをはじめとして様々な形を捉えたもの、と説明にある。しかし、そのような説明を無しにしては、この描かれた線が、何かを示すものか、または何も示していないものか、はっきりと区別できない。それだけでなく、何かを示していても、その何かではない、違うものに見えたりもする。そのとき仮に、あるイメージがあって、それが作品に微妙に表れているのであれば、そのときその線はそのイメージに「なりかけ」の線と言える。つまり、表現しようとするイメージがあって、それになろうとしている途中の線がそこにある。しかし、この「途中」という状態は、鑑賞者の想像力や作者の気分によって、異なる方向へと幾らでも向かうこともある。観る者がその線に対して、「これは、リンゴのようだね」と言って、芸術家が「実は、アニメのキャラなんです」と答えることは出来ても、「リンゴを描いた訳じゃないので、それは間違った見方です」ということが出来ない。なぜなら、それは現物や理想としてのイメージがいくら―作者の頭にも―あったところで、その途中過程として描かれている、つまり生成途中の線であるあらだ。この線において、イメージどおりになる可能性も、そしてそうならない可能性―これは決して否定的な意味ではない、より「良いもの」と表れる可能性もあるからだ―の両側面が表れている。これが線である理由、それは面にもなる可能性も、そうならない可能性もある点としても、「イメージへの不完全な基本単位」として強調されている。描かれた線は、描かれているイメージ―具体的な形として、そして頭の中のイメージとして―である。それはまた、「書く」と「描く」との違いが、はっきりしない、ひとつの「過程として」表れている。それは「writng」でもなく、また「painting」の両者の内ひとつに属さない、それでありながらも前者と後者へ歩みゆく可能性、つまり「drawing」として表れている。

2. デジタルとの親和性

その線の描かれたベニヤ板を近くでよく見ると、はじめデジタルのように見えた作品が、デジタルらしくないことが窺える。そこに、人の手を加えたという痕跡がはっきり表れていて、その予期せぬ効果―ノイズとも言える―が、隠されていないからだ。例えば、線を彫ったときについた機械のあとや、ところどころ線の形がいびつになって―おそらくは力加減ではないだろうか―しまった箇所を見ると、デジタルのような滑らかさではなく、人の手が加えられたことが感じ取れる。それがプログラムを搭載した機械を「通して」ではなく、機械を「用いて」行ったゆえ、そこにデジタルとは異なるズレが生じている。この人工的な特徴は、デジタルと物質的なオブジェといった根本的な材料の違いとも言える。しかし、それに先んずるかたちで「材料として」明るみになってこそ、その特徴がより明らかになる。つまり、その滑らかに見える物体に木屑が見えたり、背景に傷がついていることが確認できてはじめて、その人工的な特徴、それだけでなくその材料としての特徴が明るみになる。

ここで、ソフトウェアを用いた作品のように見える理由はなにか。それは背景と対象が溶け合う地点があるからではないか。今回の平面作品は、至ってその背景がシンプルである。色使いだけでなく、複雑な模様もほとんど無い。この上にまたシンプルな線が引かれるのだが、ここで「上に引かれた線」という表現は、はたして適切なのか?深さはそこまで無いものの、この線は横から見たときその板の内側にある。つまり、それは絵の具のように重ねられたものではなく、その支持体であるキャンバスにめり込んでいる。絵画とは異なり、表面から「数センチ引いた」場所に、その線は存在する。だとしたら、この線は背景に完全に溶け込んでしまったのだろうか。そうとも言えない。なぜなら、引かれた線は引かれたそれとして存在しているからだ。はっきりと背景とは違うものと確認でき、それゆえに一見すると、その線が「上から」描かれたように見えてしまう。しかし、現に掘った部分は板の色が見えていて、線でなにかを「書いた」というより、線でなにかを(板から)「引いた」とも言える。先ほど上で述べた「描く・書く」の曖昧さは、ここで背景と対象との曖昧さになる。

そこに、デジタルとBIENの作品におけるアナログ感との親和性が窺える。デジタル・イメージは絵画やコラージュとことなり、そこに付け加えるだけでなく、「その上に引く」こともできる。それらはレイヤーを伴ってはいるものの、消しゴムのツールで下地を見せることも出来る。付け加えるなら、それらが共に同じ形で異なる機能を行える点にある。○の形で描く・書く行為と、消す行為の両方が可能になる。つまり、それらは外見上同じ形だとしても、機能が変わることで、形に機能が順ずることがなくなった。BIENの作品がデジタルのように見えるのは、このような点に起因するといえる。しかし、作品との距離を狭めることで、その滑らかな印象は、根本的で人工的なズレの存在を確認することが出来る。下地となった背景と線についた傷やズレは、正確なようでその粗さが窺える彫像にも当てはまる、人の手の痕跡を見せてくれる。

(K4ø)

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