個展

キャラクターは自分から話が出来ない:相磯桃花《私がした暴力》

キャラクターに心はあるのだろうか?なにも漫画やアニメだけでなく、SNSのアカウントや育成ゲーム、また2次創作などを見ても、キャラクターを簡単に見つけることができる時代だ。これらキャラクターの裏には生み出す主体、つまり作者やプレイヤーが存在するという事実に照らしてみると、ある程度最初の質問には答えられるだろう。キャラクターのアカウントでつぶやき、アバターを作って冒険もののゲームをする人を見ては、その人のことを私とも言えれば、また私ではないとも言いきれない。この時、多くの人は自らをキャラクターへ反映させている。よって、キャラクターそのものには心が無いと言うことができてしまう。私たち人間は、まるで腹話術を行うように、その対象となるキャラクターへ生命の息吹を吹き込む。では、次の質問にはどう答えられるだろう。キャラクターは、何故作られるのか。

TATARABA「ナオナカムラ」で開かれた相磯桃花の個展《私がした暴力》で、作家はアニメーションゲームのキャラクター設定における暴力(または暴力性)に注目し制作を行った。絵画と映像を中心に作者はキャラクターを視覚的に表現し、鑑賞者はその人物像を見ては、ゲームで普通に見ることのできる存在として受け入れる。ここで視覚的にキャッチできるキャラクターの健全な姿は、作品のタイトルを見たときに疑問を抱くようになる。例えば、<ま、オレが気持ち悪いのがダメなんじゃん?・・・・・・ほんと笑える。>(2018)、または<みんなが話している意味が、ワタシにはわからないんだ。おかしいのはワタシかな?>(2018)というタイトルを見たとき、まるでゲーム上でキャラクターと会話をしていた途中に、困った様子として現れるシーンのようにも感じ取れる。ここで、鑑賞者は視覚的には捉えることの出来ない異質さが、その姿の内に秘めているという事実に気付くだろう。それなら、この異質さの正体は何と言えるのだろうか?それは、暴力の不確かな所在と言える。ある対象がそれを受けた後に、暴力は原因として位置づけされる。なので、人々は被害や傷つけられた痕跡を元に、暴力の存在を知ることが出来る。しかし、今回展示された作品で暴力は可視化されない。いわば、暴力を受けた事実が芸術という結果物において視覚的に捉えられていない。無傷のまま認識し、鑑賞者は暴力という単語と作品、そして行為と結果物との関連性をタイトルと照らし合わすことで、初めて確認できる。

この点を踏まえたとき、《私がした暴力》に表された作家の関心ごとは、それまでの作風の延長線上にあると考えられる。今回の作品で作家が扱う暴力というテーマは、可視化されていない。それとは反対に、以前の作品で暴力は視覚的に変形された姿で表されている。2015年に新宿眼科画廊で行われた《momoka exeeeeess!!》では、その歪んだ姿を映像作品の中で登場させている。以前の作風からは、人物の身体の一部が増幅されたり、過激に歪められ、身体の部位を移植したような姿を確認することが出来る。相当なまでに奇怪に映る姿から、鑑賞者は変形した事実の原因となる、ある力の存在を推測することが出来る。つまり、見て違和感を覚える姿は、誰かによって力が加えられた、言い換えれば、ある原因が前提とされた痕跡として表れている。《momoka exeeeeess!!》の展示で興味深い点は、作品に登場する形を変えられた個体が、鑑賞者の表情を気にもしないくらいに、自然な姿で描かれているところである。そこでキャラクターは、変な姿である自分に全然気付かないくらい、健康的に映る。暴力は、それを受けたあとに伴う原因であることを考えた時に、その痕跡は結果物である作品によって知らされる。2015年の展示において、暴力の痕跡が可視化されたのであれば、今回の展示はその痕跡が見受けられない。タイトルとキャラクターの細かな表情によってのみ、鑑賞者は暴力の痕跡を見出すことが出来る。しかし、その痕跡が視覚的に伝えられないため、根本的な暴力の所在までも疑問視される。

《momoka exeeeeess!!》では、鑑賞者がキャラクターに対して奇怪でありながらも健康にも見える姿を目の当たりにしたのであれば、今回の展示では、暴力が健康にも見える姿に隠れ、「健全」や「健康」という単語にクェスチョンマークをつけることになる。この二つの展示に見て取る共通した特徴は、「キャラクターの鈍さ」と言えるのではないか。一種のマヒ状態とも言えるこの特徴は、一方では表現として、そしてまた一方では視覚的に表れている。歪められた姿を見て、キャラクターは一方的に加えられた暴力に対し、既に鈍くなっており、また反対に、タイトルが手がかりとなって伝わる苦痛は、そのキャラクターが体感するところを表現されたものから見つけられない。以前の作風では、暴力の痕跡が歪められた形で可視化されたのであれば、今回の展示では、可視化されていないところに暴力性―読み方によっては、「可視化されないことに、暴力性を見出すことが出来る―を見出せる。しかし、その姿のみを目にした時、アニメやゲームに頻繁に見られるキャラクターのようで、これといった異常を確認できない。今回の展示のタイトルが、「犯した」ではない、「した」という表現を用いることで、また視覚的に異常のない姿で描かれることで、暴力性は無意識的な性格のものとして描かれる。しかし、ここで言う可視化は非可視性、つまり暴力の痕跡が見えないという事実だけでなく、暴力そのものを表現し、伝えることの出来ない事実までをも含んでいる。そのキャラクターたちは暴力を受けたのだろうか?他者の苦痛は、どこまでも他者へと留まる。その事実を芸術作品において浮き彫りにするには、作者はその人物の姿を歪めざるをえない、つまり自ら暴力を振るうことになる窮地に立たされる。今回の展示においてキャラクターの受けた暴力は、文章によって伝達され、創造と作為の狭間で揺れる芸術家としての悩みも露わになる。

キャンバス上に固定されようが、映像で動く姿として描かれようが、キャラクターは生命の息吹を吹き込まれる条件の下、操られる。ここで映像作品だけでなく、絵画もまた同様に、アニメーション(animation)の元の意味である「動かない存在に魂を吹き込む」人間の立場を示している。しかしここで、キャラクターを作ることと、プレイヤーの思い通りに設定をいじることの違いを、結果物から視覚的に判別し、また区別して表現することも難しい。その理由は、暴力と創造の区別が、芸術作品においてほとんど根源的な力として同時に作用するためだ。以前岡本太郎が「芸術は爆発だ」と発言したように、芸術そのものが既に暴力と創造と結ばれている。なので、芸術作品において暴力をテーマとして扱う時、形として表れるようにするのであれば、作家が暴力(的な表現)を受け入れなければいけない。また反対に、形にそのように表すことが難しい場合には、ナラティブや言葉の助けを借りなければならない。今回の展示で相磯桃花の作品は暴力をテーマにしながらも、結果的に作品の内に隠されたままで、もしそれを表現しようとする時には、言葉の助けを必要とする芸術家本人の難しさもまた伝わってくる。私が描くということ、それは暴力なのか、または主張したい内容を表したものなのか、また、創造的な行動なのか、このような疑問が互いに絡まっている、生産者としての作家が抱く困難が浮き彫りになる。

よって、今回の作品においてより重要なポイントは、キャラクターに心があるかどうかの問題より、私たちがある対象を生み出して、その形に自らの気持ちなどを投影しているという事実ではないか。つまり、幅広い意味から狭い意味までの欲望を実現し、また投影する対象としてキャラクターを生み出すことと芸術行為との関わりかたに注目すべきではないか。ここで言う投影は、なにも展示スペースを訪れた観客だけでなく、育成ゲームを行い、フォトショップで顔をいじる現代人にまでも当てはまる。私が望む姿や求める理想は、私が実現できる範囲内で生み出せる。このような創造行為が欲望と流れを共にしているという事実は、今回の展示で見て取れるポイントではないか。キャラクターは自分から話が出来ない。その代わりに、キャラクターは人間という主体の欲望をひそかに語りかけてくれる。もしかすると、何も考えずにキャラクターに自分の気持ちを投影する人間の姿こそ、相磯の以前の作風に表れていた歪曲した姿なのかもしれない。欲望を抑えられずに、視覚をはじめとした感覚器官が増大されたキャラクター。それは画面に視線を釘付けにしたまま、自らの姿が眺められない人間の姿ではないのか。

紺野優希